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烏山頭ダムと嘉南大圳と八田與一についての記録 | 台南

嘉義から台南にかけて広がる嘉南平原は、いまでは台湾最大の穀倉地帯として知られている。
しかし百年前、この場所は稲作には適さない土地だった。
雨は山の斜面を一気に駆け下り、川は海へ急ぎすぎる。
乾季には水が引き、地表には塩分が浮く。

「水さえあれば肥えた土」なのに、肝心の水が留まらない。
平野の地形に残されたこの欠陥を、人が人工的に修正しようとしたのが嘉南大圳計画だった。
1920年のことである。


ためらいながら選ばれた工法

八田與一は、東京帝国大学で土木を学び、台湾総督府の土木部に配属された技師だった。
着任後は港湾や河川の改修を担当し、とくに嘉南平野の地形と水の動きを粘り強く調べていた。
大きな構造物よりも、土地そのものの癖を読むことを重んじる技術者で、嘉南の欠陥をもっとも理解していた一人でもあった。
この平野をどう扱うかを判断できる人物として、烏山頭ダムと嘉南大圳の計画は彼に託された。

八田は、烏山頭の丘陵を見て、ここに水を溜めるしかないと判断した。
コンクリートで壁を築くには規模が大きすぎる。
地震も多く、谷は粘土質で重たい。

そこで採用されたのが、当時アジアではほぼ例がなかった「セミ・ハイドロリックフィル工法」だった。
土と水を流し込み、沈殿させ、余分な水を抜き、堰堤そのものを地形に馴染ませる。
山の動きを前提にして、土を土で支える方法だった。
烏山頭ダムはこうして形になった。


解決は構造ではなく運用にあった

しかし、これだけの規模のダムをつくっても、嘉南平原のすべてに水を行き渡らせる量には届かなかった。
八田は、足りない分を力で補おうとはしなかった。
増やせない水は、運用で回すしかない。

全域を三つのグループに分け、給水を一年ごとに切り替える。
稲作の年、サトウキビの年、雑穀や緑肥の年。
必要とする水の量が異なる作物を循環させ、エリアごとに時期をずらす。

この「三年輪作給水法」が、荒れた土地を緩やかに緑へと変えていった。
水そのものではなく、使い方の設計で平野が再生した。


湖畔の像が見ているもの

烏山頭ダムの湖面は、風のない日には平らで、雨期には濁流を静かに抱え込む。
湖畔には八田與一の像がある。
立ち姿ではなく、地面に腰を下ろし、悩むように前を見つめる姿だ。

戦中の金属供出でも失われず、戦後の政治の波にも飲まれなかった。
地元の人々が密かに守り続けたと伝えられている。
像が向けている視線の先には珊瑚潭の水面がある。
その水は、今も嘉南大圳に流れ込み、田畑を巡り、季節ごとの収穫を支えている。


平野の静かな答え

高速鉄道で台南へ向かうと、窓の外に水路が細かく刻まれた平野が広がる。
その網の下には、百年前に施された修正がある。
地形の欠陥に対して、人が少しだけ介入し、流れを整えた。

台南の果物も、嘉義の米も、源流を辿ればこの湖の水に行き着く。
台湾の食卓に並ぶもののいくつかは、自然の恵みであり、同時に人が地形と折り合いをつけた結果でもある。

旅人はその構造を知らないまま平野を眺める。
だが、水路の静かな光り方を見ると、ここには確かに長い時間が流れてきたのだと思う。

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