―― 宙を舞う朝の定番メニュー ――

マレーシアの朝は、独特の音で始まる。
パンッ、パンッ。
街角の食堂(ママック)から聞こえる、濡れたタオルを叩きつけるような音。
職人が小麦粉の生地を鉄板に叩きつけ、宙に舞わせている音だ。
Roti Canai(ロティ・チャナイ)。
具もなければ、飾り気もない。ただの焼いた小麦粉。
しかし、このシンプルな円盤こそが、多民族国家マレーシアの胃袋を一つに束ねる国民食として機能している。
マレーシアの朝の定番
ロティ・チャナイは、マレーシアの朝に最もよく出てくるメニューだ。
丸く、平たく、焼き目がついた円盤。
外側はパリッと割れ、内側は層がほどけて少しだけふわっとする。
具はない。飾りもない。
あるのは油の香りと、焼きたての熱だけだ。
それを手でちぎり、カレーに浸して食べる。
ナイフもフォークも必要ない。
朝の空腹を、もっとも短い動作で処理する食べ物に見える。
この料理を初めて見た人は、単純すぎると思うかもしれない。
しかし、マレーシアではこの単純さが、異様に強い。
屋台でも、フードコートでも、ショッピングモールの裏でも、同じ形で存在している。
南インドから来た「厚焼き」の変身
ルーツは南インドにある。
移民たちが持ち込んだParotta(パロタ)という、層になったパンが原型だ。
ただし、マレーシアのロティはインドのものとは少し違う。
インドのパロタがどっしりと重厚であるのに対し、マレーシアのロティは軽く、薄く、クリスピーだ。
食べ終わったあとに胃に残る感じが違う。
名前(Canai)の由来は諸説ある。
インドの都市チェンナイから来たという説。
マレー語のCanai(引き伸ばす)から来たという説。
ひよこ豆カレーのChannaにつけるからだという説。
確かなのは、これが長い時間をかけてマレーシアの気候と好みに合わせて変形していった食べ物だということだ。
なぜパンを空に飛ばすのか
ロティ作りは格闘技に似ている。
油を塗った小さな生地の玉を、手のひらで押し広げる。
端を持って空中に投げる。
また受け止めて、投げる。
遠心力で限界まで薄く伸ばされた生地は、向こうが透けて見えるほどだ。
これを折り畳んで焼くことで、パイ生地のような無数の層が生まれる。
バターではなく、空気と油で層を作る。
あのパフォーマンスは客を楽しませるためではなく、食感を作るための物理学として存在している。

食べる前の「拍手」
席に運ばれてきた焼きたてのロティ。
すぐに食べてはいけない。
多くの店員、あるいは客が、食べる直前にロティを両手で挟んでバシッと叩く。
行儀が悪いのではない。
叩くことで中の空気が動き、層がほぐれ、ふんわりした食感が完成する。
これが開通式になる。
ロティは叩かれてから、食べ物として立ち上がる。
ママックという半屋外のリビング
ロティ・チャナイは、だいたいママックで食べられている。
ママックは料理名ではなく、店の形式だ。
半屋外で、壁が少ない。
道路の熱気と、厨房の湯気がそのまま客席まで流れ込む。
プラスチックの椅子と、白いテーブル。
天井のファンが回り続けている。
席に座ると、店員がこちらを見ている。
注文の言葉が分からなくても、指差しと短い英語で成立する空気がある。
入口が広く、誰が客で誰が通行人か曖昧なまま、食堂が回っている。
ママックは、朝食の店であると同時に、待ち合わせ場所でもある。
食べ終わった後もすぐに帰らず、椅子に残る人がいる。
テレビのサッカーやニュースが流れ、会話の内容は薄い。
だが、薄いまま成立していることが、この場所の強さに見える。
テ・タリという「甘い接着剤」
ロティの横には、だいたい甘いミルクティーが置かれる。
Teh Tarik(テ・タリ)だ。
紅茶にコンデンスミルクを入れ、泡立つまで高い位置から注ぎ返す。
カップからカップへ、引き伸ばすように移し替える。
その動きが「引っ張る(Tarik)」の名前になっている。
味は濃い。
砂糖とミルクの甘さが先に来て、紅茶の渋みは後ろに残る。
熱い油のロティと一緒に飲むと、口の中が一度リセットされる。
辛いカレーを受け止めるための、甘い緩衝材にも見える。
テ・タリは飲み物というより、ママックの時間を延ばす道具だ。
一杯をゆっくり飲んでいる間、店は朝食の場所から社交場に変わっていく。
ロティが胃袋を埋め、テ・タリが席を埋める。

カレーという名のパレット
ロティ・チャナイはキャンバスだ。
何につけるかで絵柄が変わる。
Dhal(ダル)。
黄色いレンズ豆のカレー。辛くない。最も基本的な相棒だ。
Fish / Chicken Curry。
スパイスの刺激が欲しいときはこれになる。
Sambal(サンバル)。
真っ赤な辛味ペースト。少量で景色が変わる。
Sugar(砂糖)。
意外だが、カレーではなく砂糖をつけて食べる人も多い。
究極の単純さに、甘さだけを足す。
ロティの味は強くない。
だから何でも受け止める。
受け止めすぎて、何を主役にしているのか分からなくなることもある。
それでもロティは残る。
無限のバリエーション
基本のKosong(プレーン)を制覇したら、次は派生系になる。
Roti Telur(テロール)。
卵入り。朝食の栄養バランス担当だ。
Roti Bawang(バワン)。
玉ねぎ入り。シャキシャキした食感と甘みが増える。
Roti Tisu(ティッシュ)。
生地を極薄にして円錐状に焼き上げ、砂糖と練乳をかける。
おやつとして成立するロティだ。
Roti Bom(ボム)。
生地を小さく分厚く巻き上げ、マーガリンと砂糖を大量に練り込む。
名前の通り、カロリーの爆発物になる。
同じ小麦粉でも、ここまで性格が変わる。
ロティは料理というより、フォーマットに近い。
100円の平等を食べる
高級レストランにはないが、どの街角にもある。
一枚約1.5〜2リンギット。
日本円で言えば100円に届かないこともある。
お金持ちも、学生も、タクシー運転手も、同じプラスチックの椅子で、同じ手を使ってロティをちぎる。
その瞬間だけ、肩書きは薄くなる。
この小麦粉の塊をカレーに浸す動作は、国籍や宗教を超えた共通語のように見える。
派手さはないが、国を支える食べ物は、たいていこういう顔をしている。






