―― Qでも、ツイでも、甘辛くもない ――

台湾料理には、食べた瞬間に「ああ、台湾だ」と感じさせる共通のコードがある。
台湾全土の夜市や食堂を支配しているその不文律を、まずは3つの要素で因数分解してみる。
ひとつめは食感である。
何よりも「Q(キュウ)」。タピオカ、芋団子、魚丸。あの弾力がなければ始まらない。
あるいは「脆(ツイ)」。揚げ物のクリスピーさが、口の中で音を立てる。
ふたつめは香りである。
鼻を支配するのは、八角の甘い香りや、沙茶(サーチャー)の魚介とスパイスが混ざった濃厚な匂いだ。
夜市の通りは、匂いの層でできている。
みっつめは味付けである。
基本は甘辛(甜鹹)。
とろみ醤油(醤油膏)と砂糖がベースにあり、塩味だけで終わらない。
この三つが、台湾の舌を作っている共通の型のように見える。
小籠包は、その全てを持っていない
では、ガイドブックの表紙を飾る「小籠包」を、この基準に当てはめてみる。
食感について言えば、小籠包にはQがない。
皮は薄く、噛む必要すらないことがある。
求められるのは「入口即化(口の中で溶ける)」という感覚で、台湾の弾力志向とは逆方向にある。
香りについて言えば、八角も沙茶もしない。
立ち上がるのは、小麦と酢と生姜の匂いだ。
台湾の湿った熱気の中で嗅ぐと、どこか乾いた大陸の気配が混ざって見える。
味付けについて言えば、小籠包は甘くない。
砂糖の輪郭を立てず、塩と肉の旨味だけで形を作っている。
醤油膏のとろみや、甜鹹の丸さとは別の場所にいる。
結局のところ、小籠包は台湾料理の構成要素をひとつも持っていないように見える。
魯肉飯が「実家の味」だとすれば、小籠包は言葉の通じない「外国からの転校生」に近い。
なぜ「外様」がセンターに立ったのか
それでも小籠包は、台湾代表の顔をしている。
この違和感には、いくつかの背景が重なっている。
まず歴史がある。
1949年、大陸から渡ってきた外省人が持ち込んだ「亡命の味」が、台北に残った。
当初の小籠包は、台北の一部の富裕層やインテリが懐かしむための、閉じたコミュニティの料理だったとも言われる。
街の中心にあっても、最初から「大衆の味」だったわけではない。
次に都市の事情がある。
台湾が近代化し、国際化する過程で、小籠包の「癖のなさ」が武器になっていった。
臭豆腐の匂いや、臓物料理の見た目は、外国人にはハードルが高い。
それに比べて小籠包は清潔で、幾何学的で、味が普遍的に感じられる。
台湾という国は、自分たちの土着の味(Qや甘辛)を前面に出すのではなく、
いちばん洗練された「外様の味」を、世界に向けて差し出してきた。
その選び方には、都市が自分の顔を整えていくときの慎重さが混ざっているようにも見える。


国民からの支持
では、台湾人は小籠包を「他人の料理」と思っているのか。
そうとも言い切れない。ここが少し面白いところだ。
台湾人は、この「Qでも甘辛くもない料理」を誇りに思っているように見える。
食べ物の好みだけでは説明できない熱量がある。
小籠包は「ハレの日」の料理として扱われることが多い。
普段着の食事が魯肉飯だとすれば、小籠包は少しだけよそ行きの味になる。
家族や友人と連れ立って行き、蒸籠を囲み、会話の間にレンゲが動く。
日常の延長にあるが、日常そのものではない。
そこには、自分たちの文化にはない「繊細さ」や「職人芸」へのリスペクトも混ざる。
薄い皮を破らずに包むこと。
中のスープを逃がさずに蒸すこと。
均一に並んだひだが、味より先に目に入ること。
そして、憧れの投影もある。
小籠包は、台湾が到達した「豊かさと洗練」の象徴として見られている節がある。
泥臭い開拓の歴史を経て、こんなに美しい料理を出せる場所になった。
そういう自信が、蒸籠の中に入っているようにも見える。
まぎれもない国民食
小籠包は、台湾の土から自然に生えてきた料理ではない。
その出自をたどれば、大陸から渡ってきた点心文化の延長線上にある。
それでも台湾は、それを「よそ者」として扱い続けなかった。
受け入れ、日常の中に置き、少しずつ手を入れ、磨き上げてきた。
蒸籠のサイズ。
皮の薄さ。
ひだの数。
火の入り方。
レンゲの使い方。
酢と生姜の距離感。
そうした細部が、ただの料理の手順ではなく、街の側の作法として揃っていった。
屋台の熱気と、店の清潔さ。
腹を満たす軽食と、ハレの日の外食。
その両方を引き受けながら、小籠包は台湾の中で「育った」。
台北の街角で蒸籠を開けると、白い湯気が立つ。
そこにあるのは、八角の甘さでも、Qの弾力でもない。
静かなスープの球体である。
台湾の典型的な味の型から外れているように見えるのに、なぜか台湾の空気に馴染んでいる。
それは、台湾がこの料理を、単に残したのではなく、きちんと仕立て直したからだろう。
外から来たものを排除せず、しかしそのままでも終わらせず、手間をかけて「自分たちのもの」にしていく。
その仕事の丁寧さが、小籠包の表面に残っているように見える。
小籠包は、台湾らしさの代表例ではないのかもしれない。
ただ、台湾が何でできているかを示す料理ではある。
受け入れること。混ぜること。整えること。誇れる形にすること。
だからこそ小籠包は、いまや説明の余地なく、まぎれもない国民食として蒸籠の中にいる。







