―― 眠らない双子のビストロ ――
KLセントラル駅のNu Sentral側出口を出る。
エスカレーターを降り、モノレールの高架下へ向かう。
横断歩道の手前で、一度足が止まる。
ここがブリックフィールズ(Brickfields)の事実上の入口になる。
リトル・インディアと呼ばれるエリアは、ここから始まる。
観光地の看板より先に、生活の匂いが来る。
最初に目に飛び込んでくるのは、巨大なアルファベットだ。
ABC。
赤と青の看板が並ぶ。
早朝でも深夜でも、ここだけは昼間のように明るい。
蛍光灯の白い光が落ちている。
スパイスと排気ガスが混ざった匂いがする。
旅行者が「ああ、マレーシアに着いた」と最初に実感する場所があるとすれば、ここかもしれない。
駅の外に出た瞬間に、空気が切り替わる。
赤と青の間違い探し
多くの人は「ABCという店がある」としか認識しない。
ただ、並びには明確に異なる2店舗がある。
赤の看板はABC One Bistroである。
スローガンとしてAlways Best Choiceを掲げている。
青の看板はABC Bistro Cafeである。
路地を挟んで赤の隣にあり、セブンイレブンの近くに立っている。
どちらもABCだが、入口の表情が少し違う。
メニューは9割方同じに見える。
それでも店先の空気が微妙にずれている。
赤のほうには、ナシカンダー(Nasi Kandar)のショーケースが置かれている。
タンドリー窯も見える。
青のほうは、鉄板でロティ(Roti)を焼く音が響く。
少しだけ喫茶の空気が強い。
とはいえ、店のメニューはほとんど同じだ。
赤でロティを頼んでもいい。
青でカレーを食べてもいい。
このどっちでもいい加減さが、現地の普通に見える。


典型的なママックの構造
ABCの店内は、典型的なママック(Mamak)の形をしている。
プラスチックの椅子が並ぶ。
ステンレスのテーブルが光る。
水拭きされた床は、夜でも明るく見える。
椅子の軽さと、テーブルの硬さがある。
長居を前提にした喫茶店とは違う。
食べたら立つ。
その回転が、最初から設計に入っているように見える。
テーブルには余計なものがない。
調味料は必要最低限で、置き方も雑ではない。
メニューの写真が貼られていることもある。
指差しで済むようにできている。
店の外側も含めて、半分は通路の延長のように見える。
入口の境界が薄い。
歩いている流れのまま座れる。
この軽さが、駅前には合っている。
特別な体験はない。
ただ、マレーシアのママックに必要な要素が過不足なく揃っている。
旅行者にとっては、ここが基準点になる。

24時間、絶対に開いている
この店の価値は、味の良し悪しより先に、営業時間にある。
24時間、開いている。
その事実が一番強い。
早朝でも席がある。
深夜でも明かりが落ちない。
駅前でそれが保証されていると、安心が生まれる。
早朝5時、KLIAエクスプレスの始発を待つバックパッカーがいる。
荷物を足元に置き、テタリ(Teh Tarik)をすすっている。
甘さが濃い。
眠気の代わりに、砂糖が入ってくる。
深夜1時、残業帰りの会社員がいる。
ホテルに戻る前の観光客もいる。
マギーゴレン(Maggi Goreng)で炭水化物を補給している。
味は濃い。
身体に入れるというより、今日を終わらせるために食べているように見える。
この時間帯の店は、客層が混ざる。
地元の人と旅行者が同じテーブルを共有する。
誰も会話しないことも多い。
ただ、同じ照明の下で同じ甘さを飲む。
夜中に開いている店は、都市の保険になる。
計画が崩れたときに、戻れる場所になる。
ABCはその役割を、駅前で淡々と果たしている。

Original Penang Kayuとの距離
Nu Sentralの1階にもナシカンダーを出すOriginal Penang Kayuがある。
ABCとは大通りを挟んだ反対側だ。
地図で見ると似た立地に見える。
Original Penang Kayuもオープンエアなつくりだ。
入口の境界が薄い。
風が抜けて、席が外に溢れている。
ただ、座ってみると空気が少し違う。
ABCは駅の外側にある。
通路の延長のように人が流れ込む。
そのまま座り、短く食べて、また立つ。
Original Penang Kayuはモールの内側にある。
歩く速度が少し落ちる。
服装も少し整って見える。
荷物の置き方も違う。
客層も、わずかにずれる。
ABCには深夜や早朝の人が混ざる。
旅の途中の顔が多い。
ペナンカユは夜には閉まる。
買い物の合間の食事に見える。
料理はどちらもママックの範囲にある。
ただ、同じロティでも、同じテタリでも、
置かれている場所が違うと、意味が少し変わる。
ABCは関所の外にある。
ペナンカユは関所の内側にある。
その差だけで、店の表情が変わって見える。

玄関を押さえるというやり方
ABCはマレーシア全土に展開する巨大チェーンではない。
ペリタ(Nasi Kandar Pelita)のような規模でもない。
店舗数は意外と少ない。
それでも、多くの旅行者は「有名店」だと記憶する。
理由は単純に見える。
KLの玄関に立っているからだ。
この場所は流量が多い。
駅から出る人が通る。
モノレールへ向かう人も通る。
ブリックフィールズへ入る人も通る。
その一点を、赤と青の2店舗で押さえている。
赤が満席なら青へ流れる。
青が落ち着かないなら赤へ戻る。
この一角に足を踏み入れた時点で、選択肢は狭くなる。
他の店もあるが、まずABCが目に入る。
視界の中心を取るというだけで、人は座ってしまう。
この店は、味で勝つというより、位置で勝っている。
それは都市の入口に立つ店の戦い方に見える。

Always Best Choiceの意味
赤い看板にはAlways Best Choiceと書かれている。
この言葉は「最高の味」を意味しない。
少なくとも、そうは読めない。
いつ行っても開いている。
そこそこ食える。
選択の失敗が起きにくい。
その意味では、嘘は少ない。
最良というより、最良の妥協点に近い。
旅の途中では、その妥協点がありがたいこともある。
次にKLに着いた時も、たぶん何も考えずに座る。
赤か青かは、そのときの空き具合で決まる。
それで十分だと思える。
ここに座ることが、KLという都市へのチェックインの一部になる。
そういう場所が、駅前には残っている。


