――小籠包とチャーハンに見る、台湾製造業――

鼎泰豊の入口は、街に溶けている。
派手な看板があるわけではない。
しかし人の流れだけが、そこを目的地として指し示している。
店内に入ると、空気が少し整っている。
席に案内される前に、ガラス張りの厨房が目に入る。
それは厨房というより、展示ケースに近い。
人は料理を待つより先に、製造工程を見てしまう。
ここで最初の違和感が生まれる。
中華料理の厨房なのに、怒号がない。
鍋を叩く音も、炎の音も、聞こえにくい。
あるのは白衣を着た集団の、静かな反復運動だけだ。
職人が主役の舞台ではない。
むしろ職人が、舞台装置の一部として配置されている。
ここはレストランのバックヤードではないように見える。
食のフォークリフトが動き回る、生産ラインの前室である。
沈黙する厨房
ガラスの向こうでは、手が動いている。
しかし、その動きは演技ではない。
客の視線を意識した誇張がない。
生地が切られ、伸ばされ、包まれ、並べられる。
誰かが叫んで指示を出すこともない。
音の代わりに、手順が支配している。
鼎泰豊の厨房は、熱と混沌を売りにしない。
火力の強さや、鍋の音で魅せない。
代わりに、均一な速度で工程を進める。
この静けさは、偶然ではなさそうだった。
個人のテンションに依存しないための静けさである。
つまり、誰が立っていても同じ結果に到達するための静けさだ。
役割が細かく切り分けられている
厨房の中をよく見ると、動線が短い。
人が持ち場を離れない。
そのことが、かえって目立つ。
作業は残酷なまでに細分化されている。
生地をちぎる係がいる。
伸ばす係がいる。
包む係がいる。
一人がすべてをやらない。
一人が一工程だけを繰り返す。
そこに自由度は少ない。
料理店というより、組立工場に近い。
工程を渡すたびに品質が安定する構造である。
個人のひらめきは入り込む余地が少ない。
胸元や帽子のラインに、色の違いが見えることがある。
階級章のようなものだ。
実習生、一級、二級。
そうした区分があるらしい。
入社しても、すぐに包む工程には立てない。
まず周辺の仕事から覚える。
その順番が、制度として固定されているように見える。
この厳格さは、料理学校というより軍隊に近い。
しかし軍隊の目的は勝利であり、ここでの目的は再現性だ。
規律は、味のばらつきを減らすためにある。
小籠包の十八のひだは、職人の感性の産物というより、
このシステムが生み出した工業規格に見えてくる。

18のひだが示すもの
ひだは、装飾にも見える。
しかし鼎泰豊の場合、装飾の意味合いは薄い。
ひだは、工程の痕跡である。
同じ形が繰り返されることで、工程の正しさが保証される。
ひだの数は、見た目の美しさだけでなく、作業の精度を示す指標になる。
もしひだが乱れれば、
それは味の問題ではなく、工程の乱れとして扱われる。
そういう文化があるように見える。
ここでは「おいしい」は結果であり、
「同じ」が先に来る。

白いチャーハンという異物
この製造業の論理が、最も端的に表れるのが排骨蛋炒飯だ。
排骨チャーハンである。
皿が運ばれてきたとき、まず色に驚く。
白すぎる。
中華料理の炒飯は、しばしば茶色い。
鍋の焦げた香り、いわゆる鍋氣が価値になる。
火力の痕跡が味になる。
しかし鼎泰豊のチャーハンは、その痕跡を意図的に消している。
焦げ目がない。
油のギラつきも薄い。
炒め物というより、組み立てられた食品に見える。
粒が立っている。
だが荒れていない。
米は台梗9号指定だと言われる。
油の量、ネギの刻み幅、卵の火の通り具合。
すべてが規定されているように感じられる。
焦げ目は、香りの加点ではなく、ムラとして排除される。
メイラード反応が、魅力ではなく誤差になる。
この価値観は、飲食店より製造業に近い。
これは炒め物ではない。
設計図どおりに組み立てられた可食性精密部品である。
そういう言い方が、少し似合ってしまう。

職人芸を否定するための職人
ここまで徹底する理由は、単純に見える。
世界展開である。
一般的な名店は、シェフの腕に依存する。
個人の天才性が、店の味になる。
しかしその方式は、複製が難しい。
天才は量産できない。
体調も、気分も、年齢もある。
辞めれば味が変わる。
鼎泰豊が選んだのは、個人の腕を無効化するシステムだった。
誰が作っても、東京でもロサンゼルスでも、
同じ味に着地する。
ここで興味深いのは、
職人を排除しているのではなく、
職人を規格の中に組み込んでいる点だ。
職人の手は必要だ。
しかし職人の自由は必要ない。
そのような矛盾が、成立している。
台湾の製造業の比喩として
鼎泰豊の哲学は、台湾の別の産業に似ている。
半導体や電子機器の受託生産で知られる国の気配だ。
TSMCのようなファウンドリは、
顧客の設計を寸分違わず形にする。
そこに作家性は求められない。
求められるのは、誤差のなさである。
鼎泰豊が目指しているのも、
食の世界でのファウンドリのように見える。
小籠包という製品を、安定して出荷し続けること。
客は料理を食べに来る。
しかし同時に、安定した品質を買いに来る。
ここでは味が、サービスではなく供給契約に近づいていく。
美味しい工業製品
レンゲで、真っ白なチャーハンを口に運ぶ。
雑味が少ない。
油っぽさが残らない。
整っている。
小籠包を割ると、スープが出る。
皮の厚みは均一に感じられる。
熱の入り方も一定に見える。
ここには料理人の顔が見えにくい。
見えるのは企業のロゴだけだ。
それを寂しいと言うのは簡単である。
しかし、世界中のどこでも同じ品質が約束されるという事実は、
それ自体が奇妙な成果でもある。
鼎泰豊で食べているのは、小籠包だけではない。
台湾という国が積み上げてきた、
製造業としての極地の一部を食べているのかもしれない。
主張は強くなくてよい。
ただ、ガラスの向こうで手が動き続ける限り、
この店は飲食店というより、工場のように見え続ける。






