―― 大豆を作らない島が「豆漿帝国」になった理由 ――
台湾の朝は、豆乳の匂いでゆっくり動き出す。
外帯袋の温度、紙コップの薄い湯気。
ただ、その味を支える大豆は、台湾の土地では育っていない。
豆乳が日常の中心にあるにもかかわらず、
原料の多くはアメリカやブラジルから届く輸入品だ。
大地と食文化が結びつくのは自然な流れだが、
台湾の豆乳はその法則から外れている。
なぜ、この島は「育てない豆」を毎朝の血液のように飲むのか。
1949年に移植された味
豆乳と焼餅の組み合わせは、台湾固有のものではない。
その出自は、国共内戦に敗れて台湾へ渡った外省人の記憶にある。
福建・河北・上海。
彼らの故郷にあった朝食文化が、
戦後の混乱の中でこの島へ持ち込まれた。
台北の永和区には、退役軍人が多く住み、
彼らが故郷の味として豆乳屋を始めた。
その密度の高い一帯が「永和豆漿」という言葉を生み、
看板は台湾全土に広がった。
本省人の朝が粥と米粉だった時代に、
豆乳と焼餅という異物が静かに上書きされていった。
牛乳の代わりとしての豆乳
戦後の台湾では、牛乳は高価な飲み物だった。
栄養の不足を補うため、政府や栄養学者は、
大豆を「東洋の牛乳」と位置づけ、
タンパク源として豆乳を奨励した。
輸入大豆は安く、加工も容易で、
都市部の成長スピードに合わせやすかった。
豆乳は、手の届く価格で栄養を供給できる、
実用的なエネルギー源だった。
台湾における豆乳の普及は、
健康文化というより、
経済合理性と政策の交差点で生まれたものだった。
朝の味を支える巨大なインフラ
朝食屋の裏側に積まれた大豆の袋は、
アメリカの農場から続く長いサプライチェーンの終点だ。
絞りたての豆乳の香りは素朴だが、
その背景にあるのは国際貿易のロジックである。
豆乳は、土地の恵みというより、
流通の速度と規模に支えられた飲み物だ。
近年は台湾産大豆を使う店も出ているが、
まだ「特別な選択肢」に近い。
朝の一杯は、島の外側から流れ込む経済の匂いを含んでいる。
異物が日常になるまで
外省人の食べ物だった豆乳は、
時間の中でゆっくりと台湾に馴染み、
今では誰にとっても当たり前の朝になった。
大豆は輸入で、文化は移植で、普及は政策で支えられた。
それでも、人は毎朝搾り、温め、砂糖を加え、
あるいは酢で固め、店先で提供し続ける。
豆乳が台湾の食文化である理由は、
原料ではなく、この続ける執念にある。
外側から来たものが、時間の中で島の味へ変質していく。
豆乳は、その変化を象徴する飲み物だ。
朝の街に湯気が立ち、
外帯袋の温度が手に残る。
それは台湾が歩んできた現代史の余熱でもある。
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