―― 引き算で作る究極の日常食 ――
どこの麺屋に行っても、メニューの端に一番安い麺がある。
だいたい35〜45元。写真も小さく、説明もない。
それが「陽春麺」。
澄んだスープに白い麺。上に乗っているのは、申し訳程度のネギかモヤシだけ。
肉の塊も、派手な具もない。
日本人はここで一瞬ためらう。
「せっかく台湾に来たのに、これでいいのか?」と。
でも、これは台湾麺文化の白いTシャツだ。
地味で、毎日着られて、洗われ続けて、それでも残る。
派手な料理より先に、店の基礎体力が露骨に出る一杯でもある。
なぜ「春」なのか(名前のミステリー)
陽春麺という名前には、いくつか説がある。
いちばん粋だと思うのは、隠語説だ。
昔、旧暦10月は「小陽春」と呼ばれていた。
そして、かつてこの麺は一杯「10文(十分)」だった。
「10」という数字を共有するもの同士が、言葉遊びのように結びついた。
それが「陽春麺」という名前になった、という話。
大王でも将軍でもなく、季節の言葉を冠する。
この軽さと親しみやすさが、いかにも庶民の麺らしい。
「ラードとエシャロット」の魔法
具がない、と言ったが、味がないわけではない。
スープの中には、
ごく少量の肉燥、
油葱(揚げエシャロット)、
そして猪油(ラード)が溶けている。
啜った瞬間、透明な見た目からは想像できない香りが立ち上がる。
動物性の油脂の甘みと、揚げネギの香ばしさ。
具がないぶん、逃げ場がない。
麺の小麦の香りと、油の存在感が、直接こちらに届く。
誤魔化しがきかない。
だからこそ、旨い店の陽春麺は、驚くほど記憶に残る。
キャンバスとしての役割
台湾人が、陽春麺「だけ」を食べることはあまりない。
陽春麺は主役ではない。
白飯と同じ立ち位置だ。
一緒に頼まれるのは、滷味や燙青菜。
昆布、豆腐、豚耳、腸詰、青菜。
味の濃いおかずを食べ、
その塩気と脂を、陽春麺の優しいスープで流し込む。
口の中で味を調整するために、麺はシンプルでなければならない。
陽春麺は「料理」ではなく、「調整装置」なのだ。
「乾」か「湯」か
陽春麺にも、二択がある。
汁あり(湯)か、汁なし(乾)か。
通な人ほど、乾麺を選ぶ。
スープがないぶん、タレとラードが直接麺に絡む。
シンプルなのに、妙にパンチがある。
乾麺を頼み、
サービスの清湯(具なしスープ)を別にもらう。
これが、いちばん満足度の高い組み合わせだと思う。
基本にして奥義
豪華な具材が乗った牛肉麺は、たしかに美味しい。
でも、それは化粧をした台湾だ。
素顔を知りたければ、陽春麺を食べるしかない。
胃が疲れた時。
財布が軽い時。
あるいは、店の実力を静かに確かめたい時。
勇気を出して、メニューの一番安い麺を頼んでみてほしい。
そこに、その店の日常が詰まっている。


