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「何でもあり」な台湾の朝食についての記録

台湾の朝。
早餐店と書かれた小さな店に入り、壁のメニューを見上げる。

文字と写真が隙間なく並び、どこから読めばいいのかわからない。
蛋餅。
飯糰。
大根餅。

ここまでは想定の範囲だ。

その横に、ハンバーガー。
サンドイッチ。
鉄板麺。
フレンチトースト。

飲み物は、豆乳、紅茶、コーヒー、ミルクティー。
順序も、文脈も見当たらない。

和洋中が同じ平面に並んでいる。
それも、違和感なく。

台湾の朝食は、節操がない。
そう言い切ってしまうと乱暴だが、
少なくとも統一感は薄い。

なぜ、ここまで混ざったのか。
その理由を考え始めると、朝のメニュー表が、少し違って見えてくる。


米の朝に、粉が入り込んだ

1949年以前、台湾の朝は比較的単純だった。

お粥。
漬物。
米を中心とした食事。

そこに、大きな変化が起きる。

国共内戦の結果、大陸から多くの外省人が渡ってくる。
同時に、米軍援助物資として大量の小麦粉が入ってきた。

米の島に、粉が流れ込む。

それは、静かな侵入だった。
だが、確実だった。

焼餅。
饅頭。

北方の粉食文化が、朝の選択肢に加わる。
米が消えたわけではない。

米の上に、粉が乗った。
それだけのことだが、朝の景色は変わった。


永和から広がった白い液体

次の波は、場所を持っていた。

台北の南、永和。
退役軍人が多く住むベッドタウンだ。

深夜に働く労働者のため、
豆乳と油條を売る店が現れる。

熱い豆乳。
揚げたパン。

腹にたまり、安く、温かい。
夜食として始まったこの組み合わせは、
やがて朝へと移動する。

永和豆漿。
この名前が、ひとつの形式になる。

24時間営業。
明るい店内。
回転の早さ。

若者文化とも結びつき、
豆乳に油條を浸すという食べ方が定着する。

ここでも、前の朝食は消えていない。
粥の横に、豆乳が並んだ。


赤い看板が割り込んできた

三つ目の波は、1980年代だ。

経済成長期の1981年。
林坤彬が、美而美というチェーン店を始める。

赤い看板。
明るい内装。

彼が持ち込んだのは、ハンバーガーとサンドイッチだった。
当時、それは西洋の食べ物だった。

だが、そのままは出さなかった。

甘いマヨネーズ。
柔らかいパン。

台湾人の口に合わせ、
朝食の価格帯に落とし込む。

この台湾式ハンバーガーは、
既存の朝食の隣に、強引に並べられた。

排除は起きなかった。
置き換えも起きなかった。

ただ、横に置かれた。


すべてを焼くという選択

ここまでバラバラな歴史を、
一軒の店で扱うには無理がある。

そう思うが、
台湾の朝食屋は成立している。

理由は、厨房にある。

巨大な鉄板。
それだけだ。

ハンバーガーのパティ。
目玉焼き。
大根餅。
蛋餅。
サンドイッチのパン。

すべて、同じ鉄板で焼かれる。
場所を区切り、同時に進む。

煮る工程は少ない。
オーブンも使わない。

焼くことに全振りする。
それによって、時代の異なる料理が、
同じラインに乗る。

鉄板は、歴史を受け止める装置になった。


飲み物は封じ込められる

鉄板の横には、もう一つ忙しい機械がある。

カップにフィルムで蓋をする自動シーラーだ。

豆乳。
紅茶。
ミルクティー。

どんな飲み物も、
この機械を通ると、こぼれなくなる。

台湾は、バイクの社会だ。
片手に朝食、片手でハンドル。

液体がこぼれないことは、
味以上に重要だった。

シーラーは、
飲み物を持ち出すための最終関門になる。

ここでも、古い新しいは関係ない。
すべて、同じ出口を通る。


捨てなかったという事実

多くの場所では、新しい食文化が来ると、
古いものは消える。

専門店になり、
やがて記憶の中に入る。

台湾の朝食屋は、そうしなかった。

大根餅の上に、焼餅を乗せた。
その上に、ハンバーガーを乗せた。

誰も、間引こうとしなかった。

ハンバーガーがあるから、
大根餅は不要だとは言わなかった。

鉄板という道具が、
それを可能にした。

メニュー表は、結果として分厚くなる。
整ってはいない。

だが、そこには順序がある。

1949年。
永和。
美而美。

それぞれの時代が、
削られずに残っている。

蛋餅をかじり、豆乳を飲む。
その一口の中で、
数十年分の歴史が、衝突せずに並んでいる。

台湾の朝食は、
選択肢が多いのではない。

捨てなかった結果として、
今も積み上がっているだけだ。

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