―― ハラル小籠包への挑戦 ――
小籠包は、すでに世界中に広がっている。
ロンドンでも、ロサンゼルスでも、シンガポールでも、蒸籠の湯気は見つかる。
ただ、世界に広がるほど、避けられない問題が残る。
ハラルである。
マレーシアやドバイの街では、今も普通に小籠包が食べられている。
豚肉を使わない小籠包が、当たり前の顔で並んでいる。
それはどうやって成立したのか、という疑問が残る。
ハラルは、イスラム教の戒律に沿った食の規定だ。
豚肉やアルコールが禁じられ、調理の工程や器具にも条件がある。
「豚を使わない」という話は、単なる材料変更では終わらない。
小籠包において、豚肉は具材以上の意味を持つ。
味の土台であり、構造の土台でもある。
それを抜くことは、基礎を抜くことに近い。
それでも台湾の企業は、この壁を正面から扱った。
答えは新しい発明ではなく、古い手つきの掘り起こしだったように見える。
失われた4つの機能
豚肉を抜いた瞬間、小籠包は不安定になる。
欠けるのは味だけではない。
いくつかの役割が同時に消える。
一つ目は、凝固だ。
小籠包のスープは、包む前に一度固まっていなければならない。
豚皮のコラーゲンは、冷えると煮こごりになり、熱で溶ける。
この都合のよさが、豚肉の強さだった。
二つ目は、乳化だ。
豚のラードは、スープに厚みをつける。
脂が混ざることで、液体は舌に残る重さを持つ。
鶏油や植物油は軽く、分離しやすい。
水と油が、すぐに別々になる。
三つ目は、食感だ。
豚肉は脂が多く、火を通しても硬くなりにくい。
一方で鶏肉は、加熱すると繊維が縮み、水分を吐き出す。
餡が乾き、口の中でほどけなくなる。
四つ目は、香りだ。
豚の脂には甘い匂いがある。
それは獣臭さでもあるが、満足感でもある。
豚が消えると、脳は「何か足りない」と感じる。
豚肉は、便利すぎる素材だった。
禁じられると、小籠包の弱点が一斉に露出する。
昔の台所に残っていた手つき
台湾がこの問題を解くとき、ゼロから作り直したわけではない。
過去にあった技法を拾い上げている。
凝固の問題には、広東料理の知恵がある。
豚を使わずに煮こごりを作るために、鶏の足(モミジ)を煮込む。
肉ではなく、皮と軟骨で濃度を出すやり方だ。
鍋の中身は茶色く濁り、匂いも強い。
だが、冷えると固まる。
食感の問題には、清真料理の知恵がある。
中国のイスラム教徒は、牛や羊を食べる。
硬い肉を餃子の餡にするため、肉に水を抱えさせる。
打水(ダーシュイ)と呼ばれる手つきだ。
挽肉に水分を加え、強く撹拌する。
肉の繊維が水を抱え込み、火を通しても汁が逃げにくくなる。
鶏肉がパサつく問題も、ここで少し抑えられる。
さらに台湾には素食の技術がある。
仏教の文化の中で、肉を使わずに満足感を作る工夫が積み重なってきた。
大豆タンパクやキノコを混ぜ、噛みごたえを作る。
肉の代わりを作るのではなく、肉が担っていた役割を分散させる。
豚肉の代用品を探すより、豚肉が持っていた機能を分解し、別々の素材で補う。
その発想が見えてくる。
鼎泰豊:手作業を揃える
鼎泰豊のハラル対応は、職人芸の延長にある。
奇抜なことはしない。
ただ、手間を増やし、揺れを減らす。
凝固の問題には、鶏の足が使われる。
鶏の足を煮込み、コラーゲンを引き出す。
豚皮の代わりに、鶏の皮と骨の濃度で固める。
ここで重要なのは、ただ煮るのではなく、雑味を抑えることだ。
濃度を上げるほど、匂いも強くなる。
そのバランスを、手間で整える。
乳化の問題は、脂の扱いになる。
豚のラードのような重さを、別の脂で作らなければならない。
鶏や鴨の脂を使い、融点の違いを組み合わせる。
熱したときに溶け、口の中で残りすぎない重さを探る。
鶏肉は、火を通すと硬くなる。
ここで打水が出てくる。
挽肉に水分を加え、撹拌し、繊維に水を抱えさせる。
さらに野菜を混ぜる。
ヘチマや筍のような素材が、肉の縮みを受け止める。
肉だけで勝負しない。
水分を抱える層を増やして、ジューシーさを残す。
香りの問題は、別の香りで覆う。
豚の匂いを再現するより、もっと強い匂いを乗せる。
トリュフや蟹味噌のような素材が使われるのは、そのためだ。
豚がいないことを説明するのではなく、別の入口を作る。
鼎泰豊がやっているのは、代用品の開発というより、伝統技法の精密化に近い。
料理を「できる」状態に戻し、さらに揃える。

奇美:工場で崩れない形にする
一方で奇美(チーメイ)は、冷凍食品の世界にいる。
求められるのは、味だけではない。
運べること、崩れないこと、再現できることだ。
工場で作る小籠包は、蒸籠の中だけで完結しない。
冷凍され、運ばれ、棚に並び、家庭で蒸される。
その途中で一度でも溶ければ、皮は割れ、スープは逃げる。
ここで打水は、手つきではなく工程になる。
肉に水分を抱えさせる作業を、工業的に再現する。
真空タンブラーのような機械が使われる。
肉を回し、圧をかけ、調味液を繊維の奥へ押し込む。
解凍しても乾かない餡を作るためのやり方だ。
乳化の問題には、エマルジョン技術が使われる。
水と油は放っておけば分離する。
それを分離しない形にする。
植物油を微粒子化し、乳化剤で安定させる。
豚のラードのような「まとわりつく重さ」を、別の構造で作る。
素食の技術も、ここで意味を持つ。
肉だけで成立しないとき、別の素材を混ぜて構造を補う。
大豆タンパクやキノコが、肉汁を抱えるクッションになる。
食感を作り、噛む時間を延ばす。
それが「肉を食べた感覚」に近づく。
奇美が作っているのは、店の小籠包ではない。
棚の小籠包だ。
国境を越えても、形が崩れない小籠包である。

20億人に届いた小籠包
ハラル小籠包は、豚肉の代用品ではない。
豚肉の役割を分解し、別々の知恵で埋めた結果に見える。
広東料理のスープ。
清真料理の打水。
台湾の素食。
それぞれは、別の条件の中で生まれた技法だった。
それが、ハラルという条件のもとで一つに束ねられた。
鼎泰豊は、店で成立させた。
奇美は、冷凍庫で成立させた。
やり方は違うが、同じ壁を越えている。
こうして小籠包は、チャイナタウンの料理から、もう少し広い場所へ出ていく。
イスラム教徒20億人の市場が、食べる側として加わる。
マレーシアのフードコートで、蒸籠が開く。
ドバイのモールで、レンゲが置かれる。
そこに豚肉はない。
それでも、スープは中にある。
小籠包は、材料を変えながら、生き残っていく。
その柔らかい適応が、台湾の得意な形なのかもしれない。




