台湾・1949年の大撤退についての記録

朝の豆漿と燒餅、昼の牛肉麺、夜の水餃。米を中心にしてきた台湾の街で、山東や四川、江南につながる料理が、出身地を示す札もなく日常の食卓に並んでいる。

台湾の街には、いろいろな料理がある。朝には豆漿(トウジャン)と燒餅(シャオビン)があり、昼には牛肉麺を食べる。夜には水餃(シュイジャオ)の店もあり、小籠包や饅頭(マントウ)も珍しくない。米を使った魯肉飯(ルーローハン)や飯糰(ファントゥアン)がある一方で、麵や餃子、小麦の皮を使った料理も日常に深く入り込んでいる。

それぞれをたどると、山東や華北につながる麵食があり、江南の点心があり、四川など内陸部の料理につながる味もある。遠く離れた地域の料理が、現在は同じ台湾の街に並んでいる。

なぜ、一つの島にこれほど違う料理が集まっているのだろう。その風景を考えるうえで大きな出来事だったのが、1949年前後の人口移動だった。


台湾へ渡った100万人

1949年、中国大陸では国共内戦の帰趨がほぼ決まり、中華民国政府は台湾へ拠点を移した。

移ったのは政府だけではない。政府機関や軍隊、官僚、軍人の家族、商人、料理人、市民まで、多くの人々が海を渡った。移動は1949年の一年に限らず、日本統治が終わった1945年以降、内戦の進行とともに続いていた。

近年、解密された資料を使って人口を再計算した研究では、戦後に台湾と金門・馬祖へ移った外省籍の軍民は、1956年時点で1,024,233人と推計されている。男性375人に対して女性は100人ほど。多数の軍人が単身で渡ったことが、この数字に表れている。

100万人を超える人々は、故郷で身につけた生活習慣と一緒に、日常的に食べていた料理も台湾へ持ってきた。


中国各地から集まった料理

北方に限らない移住者の出身地

戦後に台湾へ渡った人々は、ひとまとめにできる集団ではなかった。山東のような華北だけでなく、福建、広東、浙江、江蘇など沿海部の出身者も多く、四川や湖南など中国各地から人が来た。小麦をよく食べる地域もあれば、米を中心に食べる地域もあり、それぞれが異なる料理と食習慣を持っていた。

100万人が島全体へ均等に散ったわけでもない。外省籍の民間人口は台北周辺に集中し、軍施設のある地域には軍人とその家族が暮らす眷村(けんそん)が作られた。高雄の左營もその一つだった。

一つの街に縮まった距離

中国大陸では、山東と四川、江蘇と湖南は遠く離れている。台湾では、その出身者が同じ街や集住地で暮らすようになった。

出身地の違う家族が隣り合って暮らせば、隣の家から故郷とは違う料理の匂いがすることもあっただろう。別の地域の調味料や料理を目にする機会も、それまでよりずっと増えたはずだ。

それぞれの料理がすぐに混ざり合ったわけではない。それでも、大陸では数百キロ、数千キロ離れていた食文化の距離が、台湾では一つの街や眷村の中まで縮まった。


故郷の味を支えた外食市場

戦後台北の各省料理

変化は街の飲食店にも表れた。

作家の唐魯孫が1946年に台湾へ来た頃、台北には蓬萊閣など日本統治期から続く大酒家があり、延平北路には新中華や小春園といった店も並んでいた。こうした大酒家を除けば、普通に食事をする飯館はまだ少なかったと、唐魯孫は回想している。

その後、大陸から多くの人が移るにつれて、台北には北平菜、江浙菜、湖南菜、四川菜など、各地の料理を掲げる店が増えていった。

料理を作る人だけでなく、その味を知り、食べたいと思う人も一緒に台湾へ来ていた。江浙料理を宴席で食べたい人もいれば、水餃を普段の食事として知っている人も、朝に燒餅を食べたい人もいた。

永和の燒餅と豆漿

現在の台湾で広く見られる中式朝食にも、この時代の人口移動がつながっている。

世界豆漿大王の沿革によれば、1955年、山東出身の李雲増が部隊を離れた後、軍の仲間とともに中正橋のたもとで燒餅と豆漿を売り始めた。周辺には大陸から来た老兵が多く暮らしており、商売は屋台の車から始まったとされる。山東の朝食を作れる人がいて、その味を知る人が近くに住んでいた。

店を利用する人と時間帯は、その後広がっていった。公式沿革によれば、台北の夜の人口が増えるにつれて宵夜に豆漿を飲みに来る客が増え、やがて朝の客を上回った。1975年には24時間営業になっている。

燒餅と豆漿はそのままで、それを食べる場面が台湾の都市生活に合わせて変わっていった。

台湾の永和豆漿についての記録

台北の街角では、「永和豆漿大王」の赤い看板が何度も現れる。けれど店ごとに、店構えもメニューも価格も、少しずつ違っている。

世界の片隅でいただきます

出身地を越えて広がった料理

米国援助

1950年代以降、台湾の麵食にはもう一つ大きな変化が加わった。

米国援助によって大量の小麦が台湾へ入り、国内の製粉業がそれを小麦粉に加工した。台湾は米の産地だった一方、小麦の多くを輸入に頼っていた。米国からの小麦は、戦後の小麦食品を支える大きな供給源になった。

大陸から来た人々が麵食の技術を持っていても、日常的に作り続けるには原料がいる。大量に入ってきた小麦が、その土台になった。

以麵代米

台湾政府は、小麦の利用をさらに広げる「以麵代米」も進めた。国内で食べる米の一部を小麦に置き換え、その分の米を輸出して外貨を得る狙いがあった。軍人や公務員などへの配給でも小麦粉が使われた。

ただ、小麦粉は米のように炊くだけでは食べられない。こね、伸ばし、包み、蒸し、茹でる方法まで知らなければ、家庭には入りにくい。

1962年には美援会と製粉業界などが麵麥食品の普及に乗り出し、台北や台中などに推広の拠点を置いた。そこでは小籠包や蔥油餅(ツォンヨウビン)などの作り方も教えられた。農業雑誌『豐年』でも、農村の女性に向けて饅頭、蔥油餅、蒸麵捲などの作り方が図解で紹介されている。小麦を供給するだけでなく、その食べ方まで広げようとしていた。

台湾に定着した麵食

それでも、台湾の主食が米から小麦へ入れ替わったわけではない。1963年から1971年にかけて、主食に占める白米の比率は83.23%から91.71%へむしろ上がり、小麦粉は1.46%から2.23%にとどまった。米は主食の中心のままだった。

一方で、米と麵を両方食べる家庭は増えている。1968年に10.37%だった比率は、1977年には23.44%になった。米を食べなくなったのではなく、米を食べながら麵や水餃、饅頭、包子(パオズ)、蔥油餅も食べる家庭が増えていった。

戦後に移ってきた人々が持っていた麵食の習慣に、米国から入った小麦と以麵代米の普及活動が重なった。麵食は、台湾の日常の中にもう一つの選択肢として定着していった。

傅培梅とテレビ

料理を伝える方法も変わった。

料理家の傅培梅も、1949年に大陸から台湾へ渡った一人だった。台湾で料理を学ぶため、各地の料理を作るレストランの師傅に謝礼を払い、作り方を教わったという。その傅培梅が、1962年からテレビで料理を教えるようになる。

それまで、知らない地域の料理を本格的に覚えるには、その土地の出身者や料理人とのつながりが重要だった。テレビでは、そうした料理が家庭の画面に直接届く。料理本も加わり、四川出身ではない人が四川料理を、江浙出身ではない人が江浙料理を作れるようになった。

傅培梅が料理人を訪ね歩いて習った技術は、今度はテレビを通じて広く家庭へ伝えられていった。


台湾の日常に残った料理

日常食になった水餃

水餃は、この変化が分かりやすい料理の一つだ。

大陸から移ってきた人々の中には、水餃を普段の食事として作る人がいた。眷村や外省人の多い地域では家庭で包まれ、街にも餃子を売る店ができた。その後、水餃は冷凍食品や餃子店の商品にもなった。現在の台湾では、米を食べながら水餃も食べることに特別な説明はいらない。

大陸の特定の地域につながる麵食だったものが、台湾の普通の夕食の一つになった。

台湾・水餃子(水餃)についての記録

台湾の街では、水餃が専門店の看板にも冷凍庫の商品にもなり、店では一個単位で食べる数まで選べる。米を主食としてきた土地で、北方の麵食だった料理が、これほど自在な日常食として並んでいる。

世界の片隅でいただきます

台湾で組み直された牛肉麺

牛肉麺は、水餃とは少し違う道をたどった。

現在の台湾の牛肉麺を、大陸のどこか一地方から完成した形で持ち込まれた料理と見るのは難しい。清燉と紅焼があり、香辛料や麵も店によって違う。

歴史学者の逯耀東は、1950年代の台北で、寶宮戲院の近くや南陽街の軒下などに初期の牛肉麺の屋台があったと語っている。最初は故郷を思いながら食べていたものが、流行するうちに「異郷が原郷になった」とも表現している。「川味」を掲げる紅焼牛肉麺についても、四川からそのまま移された料理ではなく台湾で生まれたもので、四川にはこの味はないと語っている。

故郷の味を求める人々が作り始めた料理が、台湾で形を変えながら広がった。その過程そのものが、現在の台湾の牛肉麺を作っていった。

台湾の牛肉麺についての記録

牛肉麺の店では、同じ看板の下に茶色い紅焼と透明な清燉が並び、さらにトマト味や汁なしまで選べる。麺の太さや肉の部位、卓上の酸菜まで変われば、運ばれてくる丼の印象も大きく変わる。

世界の片隅でいただきます

存在感を失った川揚菜

戦後に台湾へ来た料理が、すべて同じように残ったわけではない。

1950年代から60年代の高級宴席では、四川料理と淮揚料理を組み合わせた川揚菜が重要な位置を占めた。圓山大飯店など国の迎賓の場でも使われ、一時期は広く知られた料理だった。1970年代以降、その存在感は次第に薄れた。高級外食の流行が変わり、粵菜など別の料理が伸びたことも重なっている。

一方、水餃や牛肉麺、燒餅や豆漿は、街や家庭で繰り返し食べられた。水餃は家庭でも包め、牛肉麺は小さな店でも売れ、燒餅と豆漿は屋台からでも始められる。そうした日常との近さも、これらの料理が長く残った理由の一つだったのかもしれない。

台湾へ来たことと、その後も台湾で食べ続けられることは、同じではなかった。


出身省を問われなくなった料理

1949年前後、中国大陸から台湾へ100万人を超える人々が移った。山東から来た人は、山東で食べていた料理を知っていた。江蘇や浙江、四川、湖南、広東から来た人々にも、それぞれの故郷の味があった。

台湾では、その人々が近くに暮らし、店を開いた。別の出身地の人が食べるようになり、作り方も伝わった。小麦が大量に入り、家庭でも麵食を作るようになり、やがてテレビを見れば中国各地の料理を習えるようになった。

水餃は普通の夕食になり、燒餅と豆漿は台湾の朝の風景になった。牛肉麺は台湾で形を変えながら、一つの料理として育っていった。現在、それらを食べるときに、作った人の出身省を知る必要はない。

中国各地から台湾へ渡った料理の一部は、何十年も作られ、食べられるうちに、故郷を説明しなくても通じる料理になった。台湾の街に並んでいるのは、そうして出身省を問われなくなった料理なのだろう。

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