―― 魯肉飯とTKGの比較文化論 ――
昼過ぎの街を歩いていた。
魯肉飯の店の前だけ、途切れず人が吸い込まれていき、同じ数だけ出ていく。
特別な看板があるわけでもなく、観光客が行列を作っているわけでもない。
ただ、そこだけ少し、せわしない空気がある。
その光景を眺めていたら、ふと考えが浮かんだ。
魯肉飯という料理は、日本のTKG(たまごかけごはん)と、どこか似ているのではないかと。
豪華ではない。
派手でもない。
でも、確かに必要とされている料理。
そう思いながら、三つの観点で比べてみることにした。
食品の構造で見れば、近い
魯肉飯の器を前にして、ふと分解してみたくなる。
白米。
上に乗るたんぱく質。
油分を含んだタレ。
ごはんに染み込む香り。
TKGも同じ構造をしている。
白米の上にたんぱく質(卵黄)が落ち、醤油というタレが全体をまとめる。
脂肪は卵黄に含まれ、仕上がりは意外とリッチだ。
魯肉飯の豚脂も、卵黄の油分も、白米を包み込む媒介として働く。
結局のところ「米に脂肪と旨味をどのように混ぜるか」という一点で、両者はほぼ同じ解法を採っている。
利用シーンも似ている
どちらも、食べる側のテンションを必要としない料理だ。
忙しい日の朝や、何も考えたくない夜。
作るでもなく、選ぶでもなく、ただ体に入れていくもの。
日本でTKGが「手間のない家庭食」として生き残ったように、
台湾でも魯肉飯は、生活の隙間を埋める役割を担っている。
主役ではなく、生活を支える下地。
遠征してまで食べるものではないのに、気づけばそこにいる。
生い立ちを遡ると、さらに似てくる
TKGは、余った卵と残ったご飯をどう生かすかという、生活の知恵から生まれた。
魯肉飯もまた、豚の余った皮や脂身を無駄にしないための工夫から始まっている。
どちらも、経済性の中にある自由度が、そのままレシピになった料理だ。
贅沢ではないが、合理的で、毎日でも食べられる。
「完全食」というと大げさだが、人が長く付き合える形をしている。
いつか台湾でもTKGを
こうして並べると、魯肉飯は台湾版のTKGと言っても大きく外れないのかもしれない。
白米。
たんぱく質。
脂肪。
それをまとめるタレ。
そして、生活の隙間にひっそり収まる形。
文化も味も違うのに、構造は驚くほど近い。
人が日常で求める食事の姿は、案外どこでも同じなのだと思う。
そう考えていたら、
台湾でもTKGが流行るかもしれない、という気がした。
誰にも言わないけれど、妙に手応えのある仮説に思えてくる。
店に吸い込まれていく人の列を見送りながら、
そんな仮説に満足して、また歩きだした。
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