―― 川と城壁がつくった、守るための首都 ――
台北駅のまわりを歩くと、街は平坦に広がっているように見える。
けれど、この都市は最初から「暮らすため」に選ばれたわけではない。
台北は、防衛と統治を目的として形づくられた。
街の明るさの奥に、かすかな緊張の層が残っている。
川がつくった袋小路
台北盆地は、三つの川に囲まれている。
淡水河、大漢渓、新店渓。
外から入るには限られた経路しかなく、守る側には有利な地形だった。
湿地が多く、農耕にも向かない土地だったが、
逆に言えば「攻めにくい」場所だった。
台北が政治の中心へと育つ下地は、すでに地形に刻まれていた。
清朝の城郭都市「台北城」
19世紀後半、清朝は統治強化のために台北城を築く。
東門、西門、南門、北門、小南門。
門は都市の入口であり、防衛の要でもあった。
いまも北門だけが当時の姿を保ち、
周囲の高層ビルの間に、ぽつりと残っている。
城壁は消えても、街区のずれや道路の配置に、その痕跡が薄く残る。
台北の中心に漂う独特の古さは、この時代の名残でもある。
1949年──都市の運命を変えた「臨時首都」
転換点は、国共内戦に敗れた国民党政府の遷台だった。
1949年、台北は臨時首都になる。
なぜ南部ではなく、台北盆地だったのか。
嘉南平原のような開けた土地は、防衛に不向きだった。
その点、台北盆地は山に囲まれ、海(基隆)からも距離がある。
最後の「籠城」に向いた場所だった。
このとき、都市に流れ込んだ空気は「定住」ではなく、「反攻までの仮の宿」だった。
生活よりも、行政機能と防衛体制の整備が優先される。
台北という都市の骨格は、このとき一気に国家の中枢として固められていった。
都市計画に残る、軍事の気配
戦後、街は急速に拡張されるが、その計画には軍事的な意図が影を落とす。
仁愛路、辛亥路のような異様に広い道路。
その幅は、非常時には航空機が離着陸できるように設計された、と語られることがある。
都市伝説めいた話ではあるが、道幅の過剰さは確かに説明を求めたくなる。
総統府を中心とした博愛特区は、飛行禁止区域となり、
旧総督府や重要行政建築が密集する「本丸」として守られ続けた。
首都が一時の避難所であったとはいえ、
その中心だけは固く閉ざされた構造を持っている。
歩道の植栽や広場の配置にも、
広さと見通しの良さが優先されている場所がある。
緊急時の展開を想定していた形跡が残る。
洪水との共存
都市が広がっても、台北盆地は水に弱い。
梅雨や台風のたびに川が溢れ、街の多くが水没した時期が長い。
戦後に整備された堤防や排水路が、ようやく都市を安定させた。
いまも大雨のたびに川沿いの護岸を眺めると、
街が自然と向き合いながら築かれてきたことを思い出す。
水は台北の隠れた主語だ。
都市に残る、要塞の記憶
台北は、にぎやかな都市として完成したように見える。
けれどその輪郭には、要塞としての始まりが静かに残っている。
川に囲まれ、城を築き、臨時首都として固められ、
防衛の論理をまとったまま現在に至る。
街を歩いていて、北門がふと視界に入る。
あの石造りの門は、台北がかつて守るための場所だったことを、
わずかに思い出させる。
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