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台湾から世界へ・タピオカの伝播についての記録

タピオカミルクティーは、最初から「世界を狙った商品」ではなかった。
その拡散の起点は、企業の海外戦略でも、国家の輸出政策でもない。
それは、移民のスーツケースに詰め込まれた、個人的な嗜好だった。


移民のトランクに詰められて

1990年代、北米西海岸。
ロサンゼルスのサン・ガブリエル・バレー、モントレーパークやローランドハイツ。
バンクーバー郊外のリッチモンド。
台湾系移民が多く住むエリアの片隅で、ひっそりと「ボバ」が売られ始めた。

当時の店は、洗練とは程遠い。
中華料理店の一角、簡素なカフェ、夜遅くまで開いているだけの薄暗い空間。
客層はほぼ100%がアジア系。
それは流行ではなく、郷愁の延長だった。

この段階で、タピオカは完全に「エスニック・ドリンク」だった。
外部に向けて説明する必要すらなく、内輪で通じれば十分な飲み物だった。


鮮度という壁と、「白い粉」

次の転換点は2000年代。
問題は単純だった。
生乳と茶葉は腐る。
そのままでは、世界展開に耐えない。

ここで台湾企業が選んだのが、「白い粉」だ。
奶精粉(クリーミングパウダー)、濃縮シロップ、乾燥タピオカ。
すべては保存性を最優先に設計された素材だった。

この選択は、味の妥協でもある。
だが同時に、革命でもあった。

粉と湯と氷があれば、
世界のどこでも「台湾と8割同じ味」が再現できる。

CoCo都可やChatimeのような台湾チェーンが、それを実証していった。
熟練の茶師はいらない。
必要なのは、マニュアルと分量だけ。

タピオカ店はここで、
職人の店から、アッセンブリー型ビジネスへと姿を変えた。


「Boba Life」という居場所

2010年代、舞台は再び北米に戻る。
今度の主役は、アジア系アメリカ人の二世たちだ。

彼らにとって、スターバックスはどこか居心地が悪い場所だった。
言語でも、文化でもなく、空気の問題として。

放課後、自然と集まる場所。
Sharetea、Quickly、Ten Ren’sのようなボバショップだった。

ここで「Boba Life」という言葉が生まれる。
タピオカを飲むことが、
アジア系であることを肯定する、軽やかなサインになった。

YouTubeやSNSで拡散され、
かつて「怪しい黒い粒」だったものは、
クールなライフスタイルの一部へと書き換えられていく。


中国資本と「飲料プラットフォーム」

市場が温まったところに、巨大資本が参入する。
2010年代後半、喜茶(HEYTEA)、奈雪の茶、蜜雪冰城(Mixue)といった中国発の新茶飲ブランドだ。

彼らは台湾のフォーマットを踏襲しつつ、
フルーツティー、チーズフォーム、映える内装を重ねた。
マーケティング予算と出店スピードは桁違いだった。

ここでタピオカは、
一過性のブームではなく、
コーヒー(スターバックス)や炭酸飲料(コカ・コーラ)に並ぶ、
「飲料プラットフォーム」として定着する。

台湾が作ったのは、
一杯の飲み物ではなく、
世界中で再生産可能な「規格」だった。

ソフトパワーとしてのカロリー

タピオカが世界に広まった理由は、
美味しさだけでは説明できない。

保存技術。
粉末化。
移民ネットワーク。
そして、アイデンティティ。

黒い粒は、
気づけばパリでも、東京でも、ニューヨークでも吸われている。

それは台湾という島が放った、
もっとも成功した食の外交官なのかもしれない。

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