―― トントロの滷肉と苦瓜スープ ――
台北を歩き始めた頃、最初に安心して入れた店が鬍鬚張魯肉飯だった。
明るい店内、写真付きのメニュー、清潔なテーブル。
言葉がわからなくても、指差せば注文が通る。
旅慣れてきた今となっては、どこか物足りなく感じることもある。
けれど、あの頃の私にとっては、ここが台湾の食卓のすべてだった。
屋台の雑多さに踏み込む前の、通過儀礼のような場所。
入り口のガラス越しに見える湯気と、整然と並ぶ椅子。
その風景が、旅の最初の拠り所だったことをふと思い出す。
トントロで作られた魯肉飯
鬍鬚張の魯肉飯は、豚の首肉を使っている。
トントロと呼ばれる部分で、脂身とゼラチン質の層が細かく入り混じる。
細長く刻まれた肉は、長く煮込まれ、箸に絡むほど柔らかい。
脂の甘さはしつこくなく、滷汁の醤油と砂糖の重みが、口の中でゆっくり溶けていく。
チェーン店だからと油断していた頃、この真面目な味に驚いた記憶がある。
どこの店舗でも、ほぼ同じ輪郭の味に落ち着いている。
それは、屋台の偶然性とは違う、計算された安定の旨さだと思う。
苦瓜排骨湯という静かな相棒
魯肉飯の横には、苦瓜排骨湯を置くのが自然になった。
白いゴーヤとスペアリブの骨つき肉が、透明なスープの中で静かに沈んでいる。
白ゴーヤのほろ苦さが、魯肉の脂をそっと拭う。
スペアリブから出る甘い旨みが、後味に少しだけ残る。
初めて飲んだ時は、その苦味に戸惑った。
けれど、ある日を境に、自然と美味しいと思えるようになった。
その変化を感じた瞬間、台湾の食卓に少し馴染んだのだと思う。
屋台からチェーン店へと変わった歴史
鬍鬚張は1960年、雙連市場の近くにあった屋台から始まった。
働き詰めで髭を剃る暇もなかった創業者を、客が「鬍鬚張」と呼んだという。
屋台から店へ、そして今では台湾各地に数十の店舗を持つチェーンになった。
屋台の熱気や雑多さは薄れたが、その代わりに安心感がある。
旅人にも地元の人にも開かれた、台湾の標準的な食堂の姿がそこにある。
日本での記憶と、石川県にだけ残った店
かつて鬍鬚張は日本にも進出した。
しかし、多くの都市で店舗は姿を消した。
東京にも、大阪にも、気付けばもうない。
ただ一つ、石川県だけに「ひげ張」という名前で店が残っている。
北陸の地で、台湾の味が静かに続いている。
なぜここだけが生き残ったのか、理由はよくわからない。
台湾の魯肉飯が、雪深い地方都市に根を下ろしている光景を想像すると、少し不思議な気分になる。
旅と食の記憶が、意外な土地で別のかたちになって残ることがある。
食後の街に戻る時
食べ終えて外に出ると、街の光が少し柔らかく見える。
屋台ほどの熱気はないが、静かな生活の気配が漂う。
旅の最初の頃の不安や期待を、ふと、どこかで思い出す。
特別ではないが、確かな安心があった。
その感覚は今も、台北を歩くたびに少しだけ戻ってくる。
住所: 103台北市大同區寧夏路62號
営業時間: 10:30 – 24:30 (無休)
アクセス: MRT雙連駅から徒歩約10分。寧夏夜市の入り口付近。
地図: https://maps.app.goo.gl/KmLLadAyr298GRTe9
台湾全土に広がる安心のチェーン店。魯肉飯は「トントロ」を使用。サイドメニューの「苦瓜排骨湯」もレベルが高い。
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