―― 1997年、85大樓が「希望」だった頃 ――

1990年代半ばの高雄は、
今よりも空気が重く、そして熱かった。
世界第3位のコンテナ取扱量。
港には船が列をなし、加工出口区の煙突からは昼夜を問わず煙が吐き出されていた。
街全体が巨大なエンジンのように振動し、
人々は「明日はもっと豊かになる」と疑わなかった。
それは「台湾の奇跡」の最終章とも言える時代だった。
台北が政治の街であるなら、
高雄は金を稼ぐ街だった。
その自負が、
ある一つの野心を形にしようとしていた。
台北のさらに上を行くこと。
それを、物理的な高さで証明することだった。
南の帝王という存在
その中心にいたのが、
東帝士グループ総帥・陳由豪である。
当時、彼は「南の帝王」と呼ばれていた。
不動産、石油化学、繊維。
産業の境界を越えて拡張し、
政界にも深く食い込む紅頂商人。
銀行は、
彼が手を挙げれば金を貸した。
彼の構想は単純で、
そして過剰だった。
台北の新光摩天大樓(当時244m)を、
見下ろす建物を造る。
少し高いのでは足りない。
圧倒的に高くなければ意味がなかった。
計画された高さは347メートル。
アンテナを含めれば378メートル。
台湾初であり、
完成すればアジア屈指の摩天楼になるはずだった。
「高」という文字を建てる
設計を任されたのは、李祖原だった。
後に台北101を手がける建築家である。
彼の答えは、極めて直接的だった。
高雄の「高」。
その漢字を、そのまま立体化する。
低層部で三方に広がり、
中央に大きな空洞を持ち、
上部で再び一つに収束する。
ポストモダンと呼ぶこともできるが、
それはむしろ、
「俺たちが高雄だ」という宣言に近かった。
風水的には、富を集める門。
構造的には、巨大な凱旋門。
誰もそれを笑わなかった。
当時の高雄には、
それを本気で信じるだけの勢いと、
過剰な資金があった。
空へ伸びる塔と、足元の音
建設は昼夜を問わず進められた。
鉄骨が組み上がり、
高雄のスカイラインが書き換えられていく。
市民は見上げた。
スモッグの向こうに伸びる塔は、
重工業都市から国際都市へ変貌する
未来そのものに見えた。
百貨店が入る予定だった。
世界最高級のホテルも、
室内遊園地も語られた。
それらは「計画」ではなく、
約束された未来として共有されていた。
だが、
塔が空に近づくにつれ、
足元では別の音が鳴り始めていた。
1997年。
アジア通貨危機。
タイから始まった暴風雨は、
瞬く間に東アジアを包み込んだ。
祝杯のない竣工
1997年、85大樓は完成した。
台北の新光ビルを抜き、
名実ともに台湾一の高さを得た。
だが、
祝杯を挙げる空気はなかった。
東帝士グループの資金繰りは急速に悪化し、
銀行の態度は変わった。
膨れ上がった建設費は、
そのまま巨大な負債となった。
完成した瞬間、
この建物は「台湾一高いビル」であると同時に、
「台湾一大きな不良債権」になった。
資金回収のため、
フロアは細かく切り分けられ、
個別に売却された。
統一された管理を前提とする摩天楼は、
数千人の地権者が共存する雑居ビルとして
スタートを切ることになる。
早すぎたモニュメント
完成当時の写真を見ると、
85大樓の周囲には、まだ何もない。
今の亜洲新湾区は存在せず、
遊歩道も、ライトレールもない。
殺風景な工業地帯の中に、
唐突に立つ一本の巨塔。
それは、
来るはずのない未来を待つ
SF映画のセットのようにも見える。
あの時、高雄は確かに夢を見ていた。
実体経済を超えた夢を、
コンクリートと鉄骨で固めてしまった。
85大樓は、
廃墟になるために建てられたわけではない。
ただ、
都市の欲望と、
一人の男の野心と、
時代の狂気が、
あまりにも正確に噛み合ってしまった。
その塔は、
熱狂の時代の終わりを告げる
巨大なモニュメントとして産声を上げた。





