MENU

台湾・夜市にある度小月についての記録

夜市を歩いていると、
一瞬、視線が止まる。

派手な電飾や、叫ぶような看板の列の中に、
見覚えのある3文字が混じっている。

度小月。

度小月と書かれたその文字は、
老舗の店先で見たものと、同じ形をしている。

だが、周囲の環境はまるで違う。

低い竈はない。
職人が腰掛ける椅子もない。
ステンレスの調理台と、プラスチックの椅子。
裸電球が、強く影を落としている。

ここは支店なのか。
それとも、模倣なのか。

この問いは、多くの観光客が一度は抱くものだ。
ただ、その問い自体が、少し表層的にも見える。

ここにあるのは、
ブランドの複製ではなく、
100年以上前の光景の再出現なのかもしれない。


固有名詞に戻れない言葉

「度小月」という言葉は、
もともと固有名詞ではなかった。

閑散期である「小月」を、
どうにかして「度る」。

それは状態であり、行為であり、
一時的な生存戦略を指す言葉だった。

英語にすれば、
Surviving the Off-season に近い。

夜市の屋台がこの看板を掲げる時、
そこには二つの意味が重なっているように見える。

ひとつは、
有名店の名を借りることで、
客の注意を引くという実利的な判断。

もうひとつは、
「自分たちも、今まさに小月を度っている」
という、言葉本来の用法への回帰だ。

法的には、商標は名詞として管理される。
だが、生活の中では、
言葉は動詞として使われ続ける。

夜市という場で、
その二つが衝突している。


野生の担仔麺を食べる

椅子に腰掛け、
一杯を受け取る。

スープは、やや直接的だ。
化学調味料の輪郭が、すぐに分かる。

肉燥も、
本家ほどの層はないかもしれない。

器は、軽い。
メラミンか、使い捨てのプラスチックだ。

それでも、
麺をすすると、別の要素が入り込んでくる。

バイクの排気ガス。
隣の屋台の臭豆腐。
湿った夜気と、人の熱。

エアコンの効いた店内では切り離されていた環境が、
ここではすべて同時に存在している。

この条件は、
かつて洪芋頭が天秤棒を担いで歩いた時代に、
より近いのではないか。

私たちはここで、
ブランド化される前の担仔麺を、
体験として再生している。


普通名称化という現象

ビジネスの世界には、
「普通名称化」という言葉がある。

製品名が、
製品カテゴリそのものとして使われる現象だ。

バンドエイド。
ホッチキス。
セロテープ。

台南における「度小月」も、
一部の文脈では、
担仔麺屋を指す一般名詞に近づいている。

本家の存在感が、
あまりに大きかったがゆえに、
その名は街に溶け出した。

商標としては管理されていても、
生活語としては、すでに公共財に近い。

夜市の屋台は、
その曖昧な領域に身を置いている。


清と濁が並ぶということ

本家の度小月は、
歴史を保存し、体験を洗練させてきた。

それは、
台湾の食文化を外へ届けるための形でもある。

一方、
夜市の度小月は、
その洗練からこぼれ落ちた部分を担っている。

価格を抑え、
なりふり構わず、
今日を生き延びる。

本家が光なら、
屋台は影に近い。

だが、
どちらか一方だけでは、
街の厚みは生まれない。

看板の真贋を問うよりも、
なぜこの二つが並存しているのかを見る方が、
この街には似合っている。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次