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松山空港についての記録 | 台湾

台北を北東へ走ると、突然視界が開ける。
高層ビルの連続が途切れ、滑走路が横に長く伸びている。

台北松山空港。
街の密度が極端に高い台北にあって、この広大な空白地帯は明らかに異物だ。

それでも空港がここにあるのは、場所が選ばれたのではなく、
都市の方が後から寄せてきたからだ。
台北が膨張し続け、気がつけば滑走路を街が取り囲んでいた。


はじまりは軍用飛行場

松山空港の原型がつくられたのは、1930年代の日本統治時代。
位置づけは民間空港ではなく、あくまで軍の拠点だった。
当時の名は「台北飛行場」。

台北盆地の北側、淡水河の氾濫原に近い平地。
障害物が少なく、滑走路を敷きやすい。
そして、当時の台北市街から程よく離れていた。

軍用飛行場に求められたのは、利便性ではなく、
飛べる場所であることだった。


街が空港に寄ってきた戦後

戦後、国民党政府が台湾に移り住み、台北は急速に膨張した。
金融・行政・教育の中心がすべてここに集まり、街は東へ東へと広がる。

その過程で、松山空港は取り残された。
かつての市街地の外側は、いまや台北の中心部だ。

空港は本来「都市の外」にあるべき施設だが、
台北では逆に都市が空港を包み込んだ。
これが、世界的にも珍しい都心空港という状態を生んだ。

上空に守られた「空の回廊」

松山空港は、地上だけでなく空の構造にも特徴がある。

市街地のすぐ上に機体を通すことはできないため、
空港周辺には厳格な高さ制限が敷かれ、建物は見えない天井の中で設計される。
台北101 のような超高層が限られた場所にしか建てられなかったのは、この空の回廊があったからだ。

松山空港は、
台北のスカイラインを低く抑えた、都市の影の設計者でもある。


軍と民が同居する「二つの顔」

松山空港が台北のど真ん中に残り続ける最大の理由は、
単に「便利だから」ではない。
ここは最初から、そして今もなお、軍と民が同じ場所を使う空港である。

北側に広がる別世界

民間ターミナルの反対側(北側)に回ると、
景色は一変する。
灰色の格納庫、迷彩の建物、レーダー、対空砲。
そこには、松山空軍基地が静かに張り付いている。

滑走路は民間と共用だが、
敷地の半分は依然として軍事施設であり、
松山空港は空港というより双頭の生き物に近い。

5-2. 緊急時の「脱出・指揮ルート」

ここには、総統専用機(行政専機)や要人輸送の軍用機が常駐している。
有事の際、この空港は国家中枢の移動と指揮をつかさどる最重要インフラとなる。

なぜ都心の真ん中に空港が必要なのか。
それは、総統府、国防部、衡山指揮所など、
台湾の政治・防衛の中枢がすべて松山の周囲に集まっているからだ。

台北松山空港は、世界でも珍しい
「首都圏に埋め込まれた軍用滑走路」であり、
ビジネスマンよりも先に、国家が必要としている空港なのである。


都市に残された「戦時の地層」

松山空港に降り立つと、都市とは別の時間が流れているように感じる。

昭和期の軍飛行場の名残。
戦後、国民党が重ねた基地の空気。
そして今、羽田便や上海便のビジネス客が行き交う姿。

民間と軍、昭和と現在、平時と有事。
そのすべてが断層のように重なり、
空港は都市の過去が露出した断面になっている。


空白が語る都市の本音

松山空港は、場所としては異物だ。
密集した台北の中にぽっかり穴が開いたようで、
都市の構造から見ても必然とは言いがたい。

しかし、この空白は意図されたものだ。
ここは、政治・安全保障・外交の出口であり、
台北という都市が、自らの中に残しておいた最後の余白でもある。


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