―― 自然にできなかった街 ――
台中を歩くたびに思う。
この街には、台南のような「海が削って作った歴史」も、台北のような「山に囲まれた要塞」もない。
にもかかわらず、道路は妙に広く、区画は妙に整っていて、どこか人工的な匂いがする。
台中とは、台湾でも珍しい、
自然が作らず、人間が後から描いた都市である。
海でも川でもなく「高台の扇状地」に生まれた街
台湾の主要都市の多くは、地形の制約がそのまま都市の正体になっている。
・台北=盆地
・高雄=ラグーン
・台南=埋め立てられた内海
では台中は?
答えは 「台地の上」である。
台中市の中心部(中区・西区)は、かつて大甲渓・烏渓が作った広大な扇状地の上に位置する。
ここは海からの湿気も山からの豪雨も届きにくく、洪水リスクが低い「乾いた高台」だった。
都市にとって、これは極めて都合が良い。
平らで、広くて、水害が少ない。
しかし裏を返せば、海も川も近くないため、自然に港町として発展する必然性はゼロだった。
台中は、大地によって選ばれた街ではない。
誰かが設計し、ここに都市を置くと決めた街なのだ。
日本統治時代:台中という「新都市」が描かれた
台中という都市の骨格を決めたのは、日本統治時代(1895〜1945)である。
清朝期、台中は単なる内陸の平地にすぎず、台南(府城)や彰化のような政治的中心でもなかった。
そこに日本が新たな行政都市を作るプロジェクトを開始する。
そして、1900年。台湾総督府はここにリトル京都をつくる青写真を描いた。
■ グリッドの街
モデルとなったのは日本の京都である。
台北のように曲がりくねった道ではなく、台中駅を中心に東西南北が直交するグリッド(碁盤の目)が敷かれた。
台中を歩いていて妙に方向感覚が狂わないのは、この人工的な直交道路網のせいだ。
■ 川と緑の“設計”
街を流れる「緑川(リュチュアン)」と「柳川(リョウチュアン)」も、自然のままではなかった。
日本は京都の鴨川を参考に護岸工事を施し、柳を植え、散策路として整備した。
現在の“整った川辺の風景”は、自然に生まれたものではなく、近代都市計画として意図的に作られた景観である。
3. 軌道交通と内陸物流の「結節点」として伸びた
台中に港はない。
だが、鉄道はある。
台湾縦貫鉄道のほぼ中間地点に位置する台中は、
蒸気機関車の給水・補給を行う巨大な中継ステーションとして建設された。
そこが鉄道物流の要衝となり企業や工場が集まった。
工業区(大里・太平・潭子など)を抱え、
製造・倉庫・卸売が集積し、
都市よりも産業が先に成長するという逆転現象が起きた。
港湾都市の高雄、政治都市の台北とは異なり、
台中の強みは 陸の物流 だった。
そのため台中は、街の中心よりも外縁のほうが産業密度が高く、
どこか平野に広く散らばる都市という形になる。
山の恵みを吸い上げる「内陸の食文化圏」
台中は海から遠い。
だが代わりに、背後には中央山脈の裾野が広がる。
この地理は食文化に直接影響する。
・台中発祥のスイーツ文化(太陽餅、冰品の多様性)
・豊かな農産物(霧峰米、梨山の高山野菜)
・豪華な“辦桌(バンドゥオ)”文化が根強い
海鮮よりも、山の恵みが都市の味を作ったのである。
「海の台南、山の台中」という対比は、じつは地形の反映だ。
台中は自然の必然性がないからこそ自由である
台北は防衛の街、
台南は海の街、
高雄は港の街。
では台中は?
台中は何にも縛られていない。
地形にも、海にも、城にも、歴史の呪縛にも。
だからこそ街は広がり、
新しい建物が次々と立ち、
台湾の都市の中でもっとも伸びしろのある都市になった。
自然が与えた宿命よりも、
人間が描いた未来のほうが強く作用する街。
それが、台中である。
コメント