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台北-基隆の緊迫感を日本にあてはめて考えてみる

基隆に向かう列車を待つ間、地図を眺めていて気づいた。
台北という都市には、日本でいうところの瀬戸内海に相当する地形がない。
外力を弱め、時間を稼ぐ巨大な内海のクッション。
それが、台北にはほとんど存在しない。

京都の地図を重ねてみると、その差はさらにはっきりする。
千年の都が千年であり続けた最大の理由は、文化でも政治でもなく、
圧倒的な「距離」だったのではないかと思う。


安全な「奥座敷」としての京都

京都は、巨大な地形システムの奥深くに置かれた最終地点だった。

大陸からの脅威はまず太宰府が受け止め、
その先には数百キロに及ぶ瀬戸内海という長い水路(回廊)が横たわる。
日本列島は複雑な海流に囲まれ、大部隊が京都に進軍するにはこのルートしかない。

瀬戸内海は、ただの内海ではない。
外敵が上陸しても、
・狭い海峡
・複雑な潮流
・要塞化された沿岸集落
・島ごとの監視網
これらが進軍速度を大幅に落とす巨大な堀として機能していた。

京の都が文化の熟成を許されたのは、
瀬戸内海がもたらす時間の余裕が背景にあったのだろう。


距離ゼロの首都、台北

翻って台北を見ると、このクッションがない。

台北の喉元である基隆港から、総統府まではわずか25km。
電車なら40分で到達する距離だ。

これを日本に置き換えれば、
「京都の隣の山科あたりに、いきなり外国船が入港する港がある」ようなもの。
あるいは、
「太宰府のすぐ裏山が京都」という状態だ。

台北は、外に向かってほとんど「距離」を持たない。
首都としての余白が極端に小さい。
それがこの都市の宿命を決めている。


ソウルと仁川:クッションの欠如が歴史を変えた

台北を理解するには、ソウルとの比較がわかりやすい。

仁川とソウルもまた、極端に近い。
そしてこの近さは朝鮮戦争で歴史を動かした。

1950年の仁川上陸作戦。
マッカーサー率いる軍が仁川に上陸すると、
わずかな時間でソウル奪還につながった。

理由はシンプルで、距離が短すぎたからだ。
瀬戸内海のような緩衝帯がない都市は、衝撃を直接受ける。

台北と基隆の関係は、この縮図に近い。


都市に刻まれた「防衛の記憶」

距離のなさは都市の表情にも現れている。

京都は寺社と庭園の街だが、
台北には歴史の各段階で築かれた防御の痕跡が残る。

清朝は城壁(台北府城)で囲み、
日本は総督府を重厚なレンガで築き、
国民党政府は仁愛路を滑走路のようにまっすぐ通した。

瀬戸内海が都の外側に存在しない以上、
台北は都市そのものを固くするしかなかった。

このどこか張りつめた空気は、地形が刻んだ記憶だと思う。


瀬戸内海という「時間」が、台北にはない

台北の街は、どこにも隠れる場所を持たない。
海と首都が近すぎる。
外力との距離が極端に短い。

一方、京都が獲得したのは、
瀬戸内海という巨大なクッションが生む「時間の余裕」だった。

基隆から台北まで40分。
その近さを体感するたび、
台北という都市が抱えるヒリついた緊張の理由が腑に落ちる。

瀬戸内海が京の都に与えた時間を、
台北は持たない。


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