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台湾・魯肉飯ミシュラン事件についての記録

2011年4月。
ミシュランのグリーンガイド台湾版が出版された。

台湾の人々は、少し期待しながらページを開いた。
国際的な権威が、自分たちの街や食べ物をどう書くのか。
そこに興味が集まっていた。

その中に、魯肉飯の紹介があった。
台湾では、国民食として扱われる料理だ。

文章の途中に、短い一文が置かれていた。

発祥:中国・山東省。

この数文字が、予想以上に強い反応を引き起こした。
ネットは荒れ、メディアは追随した。

「私たちの記憶を盗むな」
そういう言葉が、見出しとして踊った。

料理の話に見えたものが、
いつの間にか別の領域へ滑っていった。


どこで誤解が生まれたのか

ミシュランが犯した誤りは、
単純な無知というより、漢字の罠に近かった。

「魯(ルー)」という字は、
春秋戦国時代の国名であり、
現在の山東省を指す別名でもある。

料理用語として「魯菜」と言えば、
山東料理を意味する。
北京料理の源流のひとつ、と説明されることもある。

調査員が、看板にある「魯」の字だけを見た時、
机上の知識が自然に結論へつながった可能性がある。

魯=山東。
魯肉飯=山東由来。

そういう分類だ。

ただ、台湾の魯肉飯における「魯」は、
本来の意味とは少し違う位置にある。

台湾では、煮込むという意味の「滷(ルー)」が使われる。
ただ、この字は画数が多い。
屋台の世界では、書きやすい字に置き換えられてきた。

つまり、魯は当て字として使われてきた。
辞書的な「魯」ではなく、
生活の中で選ばれた「魯」だった。

ミシュランは、生きた文化よりも、
辞書の側を先に見てしまった。
そういう見え方が残った。


市長が前線へ出てきた

騒動は、ネット上の不満だけで終わらなかった。
政治が動いた。

当時の台北市長は郝龍斌。
市長がこの件に反応した。

魯肉飯は台湾の国宝であり、
我々の記憶そのものである。
これを守ることは市政の義務だ。

そうした趣旨の言葉が、公的に出された。

「魯肉飯正名運動」と呼ばれる動きも始まった。
市長が記者会見を開き、
ミシュランに抗議声明を出す。

料理の出自をめぐる話が、
文化的主権の主張へ変わっていく。

外から見れば大げさにも見える。
ただ、台湾の側から見れば、
小さな誤記では済まない種類の問題だった。


圓環で1000杯を配った日

台北市は、目に見える形の反撃を用意した。

舞台は建成圓環。
かつて美食の中心地として知られた場所だ。

そこに有名店を集め、
魯肉飯フェスティバルが開催された。

市民に1000杯の魯肉飯を無料で振る舞う。
スローガンは明確だった。

これは台湾の味だ。
Not Shandong。

ニュース映像には、
丼をかき込む市民の姿が映った。

食べ方は普段と変わらない。
ただ、表情だけが少し違って見えた。

この瞬間、
ばらばらだった台湾人の心が、
豚肉のタレで一つになった。
そういう表現が似合う場面だった。


なぜそこまで怒ったのか

他の国なら、
「間違ってるよ」で終わる話だったかもしれない。

台湾では、そこまで単純に処理されなかった。

台湾は国際社会で政治的に孤立しがちな局面がある。
その中で、独自の文化は存在証明の一部になっている。

特に、巨大な隣国にルーツを紐づけられることは、
本能的な拒否感を呼びやすい。

政治や経済は複雑だ。
ただ、胃袋だけは誰にも支配されたくない。
そういう庶民の感覚が、ここでは強く働く。

魯肉飯は高級料理ではない。
むしろ日常の側にある。

だからこそ、
それを奪われることは、
日常そのものを奪われるようにも感じられる。


修正と、その後に残ったもの

その後、ミシュラン側は記述を修正し、
配慮するようになった。

ただ、この事件の成果は、
ガイドブックの文言が変わったことだけではない。

この騒動をきっかけに、
台湾国内で「自分たちの足元の文化を大切にしよう」
という空気が強まった。

B級グルメと呼ばれていたものが、
再び誇りとして語られるようになった。

台北市の魯肉飯フェスティバルも、
この事件がなければ生まれなかったかもしれない。

誤記は修正される。
だが、感情は修正されない。
それが残った。


一杯の丼は、国境を引く

魯肉飯は、ただの美味しいご飯ではない。
そう扱われる瞬間がある。

台湾人が「私たちは台湾人だ」と確認するための装置。
この事件は、それを可視化した。

あの騒動の後に食べる魯肉飯は、
以前よりも少しだけ味が濃く感じられる。
そう言う人もいる。

たかが誤植。
されど誤植。

短い一文が、
台湾の魂に火をつけた。
そういう事件として記録されている。

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