―― 「羊」の皮を被ったヤギ ――
台湾の夜市や郊外の食堂で、「羊肉」という文字を見るたびに、日本人は少し身構える。
あの独特の匂い。ラムチョップの記憶。ジンギスカンの赤身。
だが、鍋の中を覗いた瞬間、その想像は裏切られる。
そこにあるのは、骨付きで、皮付きで、黒っぽい塊だ。
台湾で食べられているのは、私たちが思う「羊肉」ではない。
もっと露骨で、もっと機能的な、山羊という存在そのものだ。
羊という漢字の罠
日本語では、羊はヒツジ、山羊はヤギと分けて教わる。
だが中華圏では、その区別は曖昧だ。
市場でもメニューでも、両者はまとめて「羊」と呼ばれる。
台湾で「羊肉」と書かれていたら、それはほぼ間違いなく山羊だ。
理由は単純で、この島は暑い。
モコモコの綿羊は生きられない。
岩場でも雑草でも食べて育つ、黒い山羊こそが、台湾の「羊」だった。
なぜ皮を剥がさないのか
日本人が山羊を食べるとき、まず気にするのは臭みだ。
だから皮を処理し、赤身だけを使う。
台湾の羊肉鍋は、真逆を行く。
分厚い皮が、堂々と残されている。
煮込まれた皮は、ぷるぷると震え、箸に絡みつく。
噛むと、肉ではなく、ゼラチン質が主張してくる。
ここで求められているのは、柔らかさではない。
噛む抵抗、弾力、持続する口内感覚だ。
台湾人は、肉を食べているのではない。
皮という「食感」を食べている。

冬のための暖房器具
台湾で羊肉鍋が流行るのは、決まって冬だ。
南国なのに、と日本人は思う。
だが台湾の冬は、湿気が重い。
気温以上に、体が冷える。
羊肉は、漢方の文脈では「温補」の王様だ。
体を内側から温める食材。
鍋を囲む行為は、食事というより、
内臓にスイッチを入れる儀式に近い。
だから夏になると、多くの羊肉店は静かになる。
この料理には、明確な季節と目的がある。
臭みを消す、二重の盾
もちろん、山羊は臭う。
それを誤魔化そうとはしない。
台湾は、正面から殴りにいく。
まずスープ。
当帰をはじめとする漢方薬を大量に投入し、
匂いを「薬の香り」で包み込む。
次にタレ。
ここで登場するのが、南部・岡山名物の豆板醤だ。
辛いだけではない。
甘く、濃く、味噌のように重い。
このタレをたっぷり絡めることで、
獣臭は「野性味」に翻訳される。
野生を飼い慣らす食卓
ここに、上品なラム料理はない。
赤身を楽しむ文化でもない。
皮付きのまま煮込まれ、
漢方と味噌で制御された、野生の塊があるだけだ。
台湾の羊肉料理は、
自然を排除するのではなく、
薬と調味で管理する思想の料理だ。
夜市の片隅で、漢方と獣の匂いが混じる湯気に包まれたら、
一度、腰を下ろしてみてほしい。




