―― 迷える者の羅針盤 ――
台湾のローカル食堂に入る。
壁一面に、赤い短冊が並んでいる。
乾麺。
湯麺。
麻醤麺。
餛飩麺。
どれも読める。
だが、どれを選ぶべきかは分からない。
この場にいるのは、
店の歴史を知らない旅行者だ。
どの料理が回っているのか。
どれが今日の主役なのか。
その情報は、こちらにはない。
ここで、視線が一つの単語に引っかかる。
招牌。
招牌という合図
招牌は、看板という意味だ。
ただし、装飾の話ではない。
店が最も前に出している料理を指す。
つまり、
この店で最も多く注文されている一皿だ。
精神論ではなく、
ここには構造がある。

回転率が作る味の安定
招牌がなぜ外れにくいのか。
理由は単純だ。
回転率が高い。
注文が集中するということは、
食材が早く入れ替わるということでもある。
肉は残らない。
野菜は溜まらない。
古い在庫が、
厨房の奥に眠る時間が短い。
海外の屋台や食堂では、
この差は無視できない。
味の問題というより、
鮮度の問題だ。
招牌は、
結果として衛生面のリスクも下げている。
厨房の動線を想像する
少し、厨房の中を想像してみる。
料理人は、
最も作る回数が多い料理を中心に立つ。
包丁の位置。
鍋の配置。
調味料の順番。
すべてが、
招牌を基準に最適化されている。
それ以外のメニューは、
必要になったときに思い出す。
食材を奥から引っ張り出し、
段取りを組み直す。
この差は、
提供スピードにそのまま出る。
招牌が早いのは、
偶然ではない。

弁当屋における招牌の力
特に分かりやすいのが、
便當店だ。
排骨飯。
鶏腿飯。
選択肢が多いほど、
迷いが生まれる。
ここで招牌飯を頼むと、
多くの場合、
一番人気の肉に加えて、
店の得意な副菜が組み合わされる。
煮卵。
青菜。
日替わりの煮物。
これは偶然ではない。
店側が、
自分たちの強みを
一つの皿にまとめた結果だ。
思考を手放すという選択
旅先では、
判断が続く。
どこへ行くか。
何を食べるか。
どれに乗るか。
小さな決断が、
一日中積み重なる。
迷ったとき、
招牌を選ぶという行為は、
思考を放棄することに近い。
だが、それは怠惰ではない。
脳のリソースを節約し、
確率の高い選択に委ねる。
合理的な判断だ。
看板を信じる
招牌とは、
店が自分の運命を預けている料理だ。
これが売れなければ、
店は続かない。
そういう覚悟が、
自然と味を安定させる。
旅人は、
その覚悟に乗るだけでいい。
漢字の壁の前で迷ったら、
招牌を指さす。
それは、
土地勘のない者に与えられた
最も実用的な羅針盤だ。


