―― 1661年、オランダ包囲戦が生んだサバイバル食 ――
台湾の夜市でひときわ目立つ鉄板料理。
牡蠣、卵、青菜、そしてモチモチのデンプン生地。
それが「蚵仔煎(オアチェン)」だ。
だがこの料理には、夜市グルメという今の姿からは想像できないほど古くて重い物語がある。
そして、その物語の中心には、台湾史で最も有名な英雄・鄭成功がいる。
英雄の苦肉の策(1661年の伝説)
台湾で語り継がれる起源の物語はこうだ。
1661年、鄭成功(国姓爺)はオランダ東インド会社が支配する台南・ゼーランディア城を包囲した。
オランダ側は補給線を断ち、鄭成功軍を「兵糧攻め」にする。
米がない。兵士が飢える。
そこで鄭成功が命じたのが、現地調達による代用食の考案だった。
彼らの目の前には台江内海(当時の巨大ラグーン)が広がり、
そこには無尽蔵の牡蠣が育っていた。
さらに台湾の土地でも育つサツマイモの澱粉(地瓜粉)がある。
米がないなら、
牡蠣+澱粉+水を鉄板で焼いて腹を満たせばいい。
これが蚵仔煎の原型だったと語り継がれている。
ただし、これはあくまで伝承だ。
近年の研究では、オアチェンのルーツは福建・潮汕系移民の食文化にあることがより確かとされる。
それでもこの伝説が愛され続けるのは、
オアチェンが生き延びるための食だったという真相と噛み合っているからだ。
「貧しさ」が生んだモチモチ食感
伝説の真偽は別として、蚵仔煎の構造は実に合理的だ。
最大の特徴であるプルプル、モチモチのデンプン生地は、
美食のために生まれたものではない。
これは、
・高価な米の代わりに
・腹持ちのよい安価なデンプンを使って
・ボリュームを増やすための知恵
だった。
台湾ではサツマイモ(甘藷)栽培が盛んで、地瓜粉は最も手に入りやすいエネルギー源だった。
同時代の日本の一銭洋食、戦時中の代用食とも構造がよく似ている。
つまり蚵仔煎とは、
飢えをしのぐためのサバイバル食、
として誕生したと考えるのが自然だ。
台湾版へのローカライズ
蚵仔煎に類似する料理は、福建省・潮州の「蠔烙(ホーラー/オーチェン)」だ。
そこからの移民が台湾に持ち込んだのが直接的な起源と考えられている。
しかし、台湾版の蚵仔煎は明確に違う。
- 地瓜粉(サツマイモ澱粉)比率が高い → 食感がよりモチモチ
- 甘いソースをかける → 台湾南部の味覚文化との融合
つまり、
「福建の料理が台湾で独自進化した」
これが学術的に最も整合する説だ。
伝承と史実が混ざるのは、台湾の食文化特有の「人と歴史の混ざり方」でもある。
現代への継承:卵と野菜をまとった「豊かさの象徴」
かつての蚵仔煎は、
牡蠣+澱粉+水のシンプルなサバイバル食だった。
しかし生活が豊かになると、料理は格上げされる。
- 卵 → 貴重なタンパク質
- 青菜(小白菜など) → ビタミン源
- ソース → 甘味文化の発展
貧しさが作った料理は、
夜市の主役であり、台湾カルチャーの象徴としてアップグレードされた。
今、我々が夜市で食べているあの一皿は、
サバイバル食が進化し、豊かさの記号をまとった姿だ。
蚵仔煎は台湾史そのもの
蚵仔煎を食べるとき、我々はただの牡蠣オムレツを食べているのではない。
そこには、
- オランダ統治期の台南ラグーン(牡蠣が育つ地形)
- 福建系移民の食文化
- 食糧難に対する工夫(地瓜粉)
- 南部の甘味文化
- 夜市という都市文化の発展
これらがすべて詰まっている。
一口食べるごとに、
台湾の歴史・人・地理が混ざり合った地層を噛みしめているのだ。
だから蚵仔煎は、
料理であり、記録であり、物語である。
コメント