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台鉄の歴史についての記録

台湾鉄道(台鉄)に乗ると、
古いというより、
時間が重なっている感じがする。

車両の新旧でも、
設備の問題でもない。

この鉄道は、
速さを求められた時代と、
生活を支えた時代と、
旅情を託される現在とを、
同時に走っている。

その重なりこそが、
台鉄という存在の分かりにくさであり、
台湾の近代史の縮図でもある。


島を縦に貫くという発想(清朝〜日本統治時代)

台湾の鉄道は、
最初から都市交通ではなかった。

清朝末期、
劉銘伝による最初の鉄道構想は、
島を貫く輸送路を作るという発想だった。

それを現実のものにしたのが、
日本統治時代の縦貫線建設である。

1908年、
基隆から高雄までが一本の線でつながった。

この瞬間、
台湾は初めて
「島として一体の経済圏」になった。

台北、台中、高雄に建てられた駅舎は、
単なる交通施設ではなく、
都市の正面として設計された。

台鉄はこの時点で、
すでに国家的インフラだった。


速さの象徴だった時代(戦後〜1980年代)

戦後しばらくの間、
台鉄は移動の主役だった。

高速道路は未整備で、
飛行機も一般的ではない。

帰省も、
ビジネスも、
旅行も、
すべては台鉄だった。

「光華号」から「自強号」へ。
特急列車は、
速く行くための最高峰だった。

1979年の全線電化は、
煤煙からの脱却であると同時に、
スピードと効率を求める時代の象徴でもあった。

この頃の台鉄は、
疑いなく王者だった。


王者の座を失い、整理されないまま残った(1990年代〜2000年代)

転換点は、
静かに、しかし決定的に訪れる。

高速道路網の整備。
長距離バスの台頭。

そして2007年、
台湾高速鉄道――高鉄の開業。

「台北―高雄」という
台鉄最大のドル箱路線は、
完全に奪われた。

速さでは、
もう勝てない。

ここで本来なら、
役割の整理が行われるはずだった。

長距離は高鉄へ。
都市内はMRTへ。

だが、
台鉄は消えなかった。

整理されたのではなく、
そのまま残った。

生活路線として使われ、
通勤通学を担い、
観光にも部分的に利用される。

速さの王者だった鉄道は、
いつの間にか
「万能ではないが必要な存在」へと変わっていく。


「捷運化」と観光という再定義(2010年代〜)

近年の台鉄で最も興味深いのは、
この再定義のプロセスだ。

長距離競争を諦め、
短・中距離の通勤客を取り込む。

駅を細かく増やし、
本数を増やし、
ICカードで乗れるようにする。

これは「捷運化(MRT化)」と呼ばれる戦略で、
言ってしまえば
MRTに寄せていく試みだった。

同時に、
もう一つの道も選ばれた。

観光である。

スピードではなく、
遅さと車窓を売る。

鳴日号やクルーズトレインは、
移動手段というより、
体験としての鉄道を前面に出している。


速く行く鉄道から、感じる鉄道へ

かつて台鉄は、
速く行くために乗るものだった。

今は違う。

生活するために乗る。
あるいは、
旅を感じるために乗る。

その変化は、
計画的というより、
状況に押されながら選び続けた結果だ。

台鉄は、
きれいに整理されることなく、
役割だけを変え続けてきた。

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