── 味変という視点から考える、少数派の話 ――
魯肉飯にゆで卵(滷蛋)。
これは台湾では、ほとんど説明のいらない組み合わせだ。
甘辛い滷汁を吸った卵。
白身は締まり、黄身は粉質になり、
魯肉と同じ方向の味を、もう一段重ねてくる。
完成度は高い。
失敗もない。
だからこそ、多くの店が滷蛋を置き、
多くの客がそれを選ぶ。
魯肉飯には滷蛋。異論はない。
完成度が高すぎると、途中で何も起きない
ただ、魯肉飯を何度も食べていると、
ある種の「単調さ」が顔を出す。
最初の数口は最高。
だが、
・魯肉
・滷汁
・滷蛋
すべてが同じ味の軸に乗っているため、
食事の途中で展開が起きない。
最初から最後まで、
同じ完成形をなぞるだけになる。
ここで必要になるのが、
味を一度ずらす要素だ。
台湾料理は「途中で変える」前提でできている
考えてみると、
台湾の麺料理や飯ものは、
最初から味変を前提にした設計が多い。
牛肉麺なら、
最初はそのまま食べ、
途中から酸菜を入れる。
あれは「好み」ではなく、
慣れた人ほど自然にやっている動作だ。
麺線も同じだ。
最初は胡椒だけ、
途中で黒酢を足す。
最後に辣椒を入れる人もいる。
つまり、
台湾では「一杯を通して同じ味で食べ切る」こと自体が、
あまり前提になっていない。
食事の途中で味をずらし、
口と脳をもう一度起こす。
魯肉飯だけが、
その流れから外れている理由はない。
煎蛋は「味変装置」として機能する
目玉焼き(煎蛋)が優れているのは、
それが単なるトッピングではなく、
味変のための装置として働く点にある。
具体的には、三つの役割がある。
① 白身の香ばしさ
煎蛋の白身には、
滷蛋には存在しない「焼き」の香りがある。
これは魯肉の甘さや脂を、
一度フラットに戻す役割を果たす。
② 半熟黄身の液体性
黄身を割った瞬間、
魯肉飯は一時的に別の料理になる。
・滷汁の甘辛さ
・ラードの脂
・卵黄のコク
これが混ざることで、
一口分だけ、味の表情が変わる。
③ 割るタイミングを選べる
ここが決定的に違う。
滷蛋は、
いつ食べても同じ味だ。
だが煎蛋は、
いつ黄身を割るかを選べる。
・後半まで残して、終盤の切り札にする
・最後の白飯にだけ絡める
この「操作できる余地」こそが、
煎蛋の最大の価値だ。
なぜ滷蛋では味変にならないのか
滷蛋は優秀だが、
役割が「補強」であって「転換」ではない。
・魯肉と同じ調味
・同じ温度帯
・同じ質感の延長
つまり、
魯肉飯を完成させる方向にしか作用しない。
味を変えるのではなく、
味を強化する。
それが滷蛋だ。
分別のある食通は、あえて煎蛋を選ぶ(かもしれない)
ここで言いたいのは、
「滷蛋はダメ」という話ではない。
むしろ逆だ。
・初訪の店
・久しぶりの魯肉飯
・一杯で満足したい日
こういう日は、滷蛋が正解だ。
ただ、
・よく通う店
・何度も食べている魯肉飯
・今日は少し遊びたい気分
そういうとき、
分別のある人は煎蛋を選ぶ。
それは奇をてらっているのではなく、
食事を最後まで楽しむための選択だ。
魯肉飯を「完成させない」という分別
魯肉飯は、完成度の高い料理だ。
だからこそ、
完成させすぎない余地が必要になる。
煎蛋は、
魯肉飯を壊すためではなく、
飽きさせないために存在する。
滷蛋が王道なら、
煎蛋は裏道だ。
だが、何度も歩くなら、
裏道の方が景色は変わる。
魯肉飯に煎蛋。
それは少数派だが、
ちゃんと理由のある選択だと思っている。


