―― 映画の灯りが消えた後に残ったもの ――
台湾の夜市を歩いていると、身体が自然に横を向く。
人を避け、屋台を避け、湯気を避ける。
それが普通だ。
しかし六合夜市では、そうならない。
道はまっすぐで、視界が抜けている。
屋台の向こうに、空が見える。
なぜ、こんなに広いのか。
最初に抱く疑問は、そこだ。
答えは単純で、ここが路地ではないからだ。
六合夜市は、自然発生した裏道の集積ではない。
幹線道路そのものを、夜の時間帯だけ市場として使っている。
この「最初から広い」という条件が、
後にこの場所を観光夜市へと押し上げる、決定的な下地になった。
夜市は、たいてい寺から始まる
ここで一度、台湾の夜市の原型を思い出す。
多くの夜市は、寺を起点に生まれる。
廟口。
祭祀。
人が集まり、線香が焚かれ、供物が並ぶ。
宗教的な中心が、人の流れを生み、
その周縁に屋台が定着する。
士林も、饒河街も、寧夏も、基本構造は同じだ。
だが、六合夜市には起点となる寺がない。
これは例外だ。
ここで人を集めたのは、神ではなかった。
映画だった。
大港埔という名の娯楽地区
この一帯は、かつて「大港埔」と呼ばれていた。
港に近く、人の出入りが多い場所だった。
1950年代、この周辺には映画館が建つ。
大港埔戯院。
当時の映画館は、単なる上映施設ではない。
人が集まり、待ち合わせをし、
上映後に食事をするための都市装置だった。
映画が終わる。
灯りが消える。
観客が外へ流れ出す。
腹を満たす場所が、必要になる。
その隙間に、屋台が並ぶ。
六合夜市の起点は、
宗教行事ではなく、娯楽消費の導線だった。

ハレの日の食事としての夜市
1970年代から80年代。
台湾は急速に豊かになる。
六合夜市に並び始めたのは、
ステーキだった。
鉄板。
ナイフとフォーク。
「牛排」という言葉。
これは日常食ではない。
ハレの日の食事だ。
映画を見る。
その後に、ステーキを食べる。
この組み合わせが、
六合夜市を「少し特別な外食の場所」にした。
今も残る老舗のステーキ屋は、
この時代の記憶をそのまま留めている。
行政が作った夜市
1987年。
六合夜市は大きく変わる。
行政がここを歩行者天国に指定する。
夕方から夜にかけて、車を締め出す。
これにより、
大型屋台が可能になり、
観光バスが横付けできるようになる。
広い道。
直線的な配置。
団体客向けの動線。
六合夜市は、
意図せずして国際観光仕様になった。
成功だった。
同時に、地元客は離れていく。
「ここは観光客の行く場所」
そう言われるようになる。

広さが生んだ必然
細い路地の夜市は、
拡張ができない。
観光バスも入れない。
六合夜市は違った。
最初から広かった。
この物理条件が、
観光化を拒む選択肢を消した。
観光夜市になったのは、
戦略というより、構造の帰結だ。
それでも残ったもの
映画館はない。
客層も変わった。
それでも、
創業50年を超える店が残っている。
担仔麺。
パパイヤミルク。
海鮮粥。
派手ではない。
映えもしない。
だが、
それらは大港埔時代から、
この場所に立ち続けている。




