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台湾の朝食屋の小籠包がフカフカな理由を考えてみる

朝の台北を歩いていると、
豆漿店の前にだけ、少しちがう蒸気が溜まっていることがある。

通勤の人が通り過ぎ、
自転車が軋み、
店先には大きな寸胴と、積み重ねられた蒸籠。

そのなかに、いわゆる「小籠包」がある。
けれど観光地で見る、あの薄皮のものとはだいぶ顔つきが違う。

皮がふっくらしていて、
どこか肉まん寄りだ。

散歩ついでに、
その理由を少し考えてみた。


朝の小籠包は「料理」ではなく「主食」なのかもしれない

専門店の小籠包は、完全に「料理」だ。
薄皮(死麺)で、スープ勝負。
蒸したての一瞬に価値がある。

一方、朝食屋の小籠包は、
どう見ても扱いが違う。

豆漿、油條、焼餅と同列に並び、
パンのように選ばれている。

皮は発酵生地で、フカフカしている。
肉汁は皮に少し吸われ、
したたるほどではない。

でもそれは「劣化」ではない。

「朝に食べ続けられる形」として
最適化された結果のようにも見える。

これを薄皮にしてしまったら、
もう豆漿の隣には置けないのかもしれない。


フカフカは、豆乳のための設計かもしれない

豆漿店の朝には、常に“液体”がある。
温かい豆乳。
砂糖入りのもの。
時には鹹豆漿。

朝食屋の小籠包は、
あきらかにそれとセットで機能している。

フカフカした皮は口の中の水分を少し受け止め、
そのあとに豆乳を流すと、ちょうどよく収まる。

もし専門店の、
あのスープたっぷりの薄皮小籠包を
このシチュエーションに持ち込んだらどうなるだろう。

たぶん、豆乳とぶつかる。
液体と液体同士では、
朝のリズムが崩れてしまう。

だからこの「フカフカ」は、妥協ではなく、
朝のための発明なのだと思う。


手で「補助できる」という実用性

朝食屋の小籠包は、
レンゲを使わなくても食べられる。

もちろん、箸を使う。
けれど、多くの人は、
紙やトレーごと持ち上げたり、
指でそっと下から支えたりしながら運んでいる。

握るわけではない。
でも、どこか道具のように扱われている。

皮が厚く、汁が少ないから、
垂れにくく、破れにくい。

通勤前の慌ただしい朝に、
レンゲの上で慎重に扱う余裕はあまりない。

この「指で補助できる」という性質もまた、
薄皮の専門店にはない、
朝食屋ならではの機能なのだと思う。


「早く食べられる」という朝の適性

もうひとつ思うのは、
フカフカの小籠包は、とにかく早く食べられるということだ。

スープがないぶん、
冷ます時間もいらない。
慎重になる必要もない。

口に運んで、噛んで、飲み込む。
それだけで、次に行ける。

専門店の小籠包は、
ひとつの小さな儀式だが、
朝食屋のそれは、作業に近い。

でも、その“作業感”があるからこそ、
毎日続くのだと思う。

朝の都市のリズムと、
ちゃんと同期している。


小籠包という名前の「寛容さ」

同じ「小籠包」と呼ばれていても、
専門店のそれと、朝食屋のそれは、
ほとんど別物に近い。

けれど台湾では、
それを無理に分けようとしない。

湯包とも呼ばれることもあるけれど、
それもまた、厳密には整理されていない。

この曖昧さが、
台湾の食の面白さなのかもしれない。

定義を狭めないことで、
「役割」を優先している。

昼の小籠包と、朝の小籠包。
観光の小籠包と、生活の小籠包。

名前の中に余白があるから、
このフカフカしたものにも
居場所が生まれている。


朝の街で、それはちゃんと機能している

永和豆漿の前で、
ビニール袋を提げた人とすれ違う。

中から蒸気が少しだけ漏れている。

彼らにとってそれは、
「特別な小籠包」ではない。

パンのように、
毎朝あるものだ。

でもそのフカフカがなかったら、
この街の朝は
少しだけ乾いてしまうのかもしれない。

外に出ると、
交差点の信号が変わっていた。

湯気だけが、
角のあたりに残っているような気がした。

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