―― 油屋をミシュラン店にした18のひだ ――

鼎泰豊(ディンタイフォン)は、台北だけの店ではなくなっている。
ロサンゼルスでも、ロンドンでも、シンガポールでも、同じ名前の看板があり、同じ蒸籠が積まれ、同じように行列ができる。
多くの人は、そこで「台湾の味」を食べていると思っている。
ただ、その起源が「小籠包の名店」ではなく、「失敗しかけた油屋」だったことは、あまり語られない。
なぜ、台北の一店舗が、ここまで大きくなれたのか。
その鍵は、味の才能だけではなく、職人の世界を別の形に変える技術にあったように見える。
1948年、敗走と「油」の時代
鼎泰豊の物語は、料理から始まっていない。
創業者の楊秉彝(ヤン・ビンイー)は、1927年に中国・山西省で生まれたと言われる。
1948年、国共内戦が激しくなる。
彼は20ドルだけを持って台湾へ渡り、いわば亡命者として新しい生活を始めた。
戦後の台湾は、外から来た人々が都市に集まり、仕事を探し、生活を立て直していく時代だった。
楊秉彝もその流れの中にいた。
1958年、彼は食用油を量り売りする店を開く。
店名は「鼎泰豊油行」。
ピーナッツ油などを扱い、台北の生活を支える小さな商売だった。
ただ、1970年代に入ると状況が変わっていく。
缶入りのサラダ油が普及し、量り売りの油屋は急速に苦しくなる。
油は「店で買うもの」から「工場で詰められたもの」へ移り、街の小さな油屋は役割を失っていった。
1972年、起死回生の決断
1972年、鼎泰豊は転換を迫られる。
店を閉めるか、別の道を探すか。
そこで選ばれたのが、店の半分を改装し、上海出身の点心師を雇って小籠包を売り始めることだった。
それは「やりたい料理」よりも、「生き残るためにできること」に近かったのかもしれない。
小籠包は、当時すでに台湾に存在していた。
外省人の移動とともに運ばれた江浙菜(上海・蘇州・杭州周辺の味)の流れの中に、小籠包も含まれていたと言われる。
つまり鼎泰豊は、ゼロから料理を発明したわけではない。
すでにあった料理を、別の形で成立させようとした。

職人芸を「均一な技術」に変える
当時の小籠包は、店ごとの差が大きかった。
皮の厚さも、餡の量も、蒸し上がりも、職人によって揺れていた。
それが悪いというより、点心という料理がそういうものだった。
ここで鼎泰豊が行ったのは、職人の「勘」を残しつつも、揺れを減らす方向への転換だった。
2代目の楊紀華(ヤン・ジーフア)が中心になって進めたと言われる。
そこで制定されたのが、いわゆる「スペック」だった。
皮5g、餡16g、ひだ18。
総重量21g。
誤差を許さず、電子天秤を持ち込み、手作業の世界に数字を入れる。
料理が数字に置き換えられていく光景は、点心屋というより工房に近い。
この数値化は、美しさのためだけではない。
どこで誰が作っても、同じものが出てくるための条件だったように見える。
小籠包は、熱さと薄さのバランスで成立している。
薄すぎれば破れ、厚すぎれば重くなる。
そのぎりぎりの線を、個人の手の感覚ではなく、共有できる形に変えたところに意味があった。
1993年、ニューヨーク・タイムズの衝撃
鼎泰豊が世界に見つかる瞬間には、明確な日付がある。
1993年1月17日。ニューヨーク・タイムズ紙。
記事「Top-Notch Tables; Teapots and Dip」の中で、鼎泰豊が「世界10大レストラン」の一つに選ばれた。
当時、台北の一店舗にすぎなかった店が、世界の名店と同列に並べられる。
台湾の外にいる人々にとって、小籠包は「ローカルな点心」のままだったはずだ。
それが突然、「世界の食の地図」に書き込まれた。
この出来事は、鼎泰豊の評価だけではなく、台湾の都市が外から見られ始める契機でもあったように思われる。
台北が、観光やビジネスの目的地として輪郭を持ち始める時代と重なっている。
1996年、日本という通過点
海外進出の最初の大きな節目は1996年。
新宿の高島屋に出店する。
アメリカではなく、日本が先だった。
この順番は、鼎泰豊の性格をよく表している。
当時の中華料理には、「美味いが不衛生」というイメージがつきまとっていた。
とくに屋台の延長線にある料理ほど、その偏見を受けやすい。
日本の百貨店は、味だけでなく、清潔さと安心を売る場所でもある。
そこで受け入れられることは、店の信用を一段階引き上げる。
日本で行列ができる。
その事実が、台湾本国にも、他国にも効いていく。
「日本で成立した」という実績が、品質保証のように機能する。
鼎泰豊は、そういう空気の流れを理解していたように見える。
ガラス張りの厨房という「見える安心」
鼎泰豊の店では、厨房がガラス越しに見えることが多い。
白衣、マスク、帽子。
無言で包み続ける職人たち。
これは料理のためでもあるが、同時に信頼のためでもある。
味の説明は言葉が必要だが、清潔さは視覚で伝わる。
中華料理が持っていた「裏側が見えない」という不安を、鼎泰豊は先回りして消していく。
料理の技術だけでなく、料理が置かれる環境そのものを整える。
小籠包は、蒸籠の中だけで完結する料理ではなくなる。
店の空気、待つ時間、見せ方まで含めて、一つの体験として成立していく。

2010年、星が付いた点心
鼎泰豊の国際化が「定着」へ進んだ節目として、2010年が挙げられる。
香港の鼎泰豊(尖沙咀店)がミシュランの星を獲得した。
点心は、もともと屋台や食堂で食べられてきた。
朝の市場の近くで、蒸籠が積まれ、急いで食べられる。
その速度感の中にある料理だった。
その点心が、フレンチや割烹と同じ評価軸に置かれる。
星が付くという出来事は、味の評価というより、場所の座標が動くことに近い。
店はチェーンでありながら、料理は繊細で、作法があり、空間が整っている。
その矛盾を、鼎泰豊は成立させたように見える。
小籠包は、B級グルメの枠から外れていく。
「旅行で食べる名物」から、「都市の高級外食の一つ」へ移動していく。
その移動は、点心全体の見え方も変えた。
蒸籠の中の料理が、国境の外で“正式な料理”として扱われるようになる。
この頃から、小籠包は説明される料理ではなく、既知の料理になっていく。
鼎泰豊が「別格」になった理由
鼎泰豊より美味しい小籠包がない、とは言い切れない。
台北には老舗もあるし、地方には地方の強い店もある。
ただ、鼎泰豊は「世界のどこでも成立する形」を先に作った。
その差が、時間をかけて広がったように見える。
台湾料理には、八角、沙茶、甘辛、内臓、発酵の匂いなど、強い個性がある。
それは台湾の魅力でもあるが、初めての人には壁にもなる。
鼎泰豊の小籠包は、その壁が低い。
八角も沙茶もしない。
甘辛でもない。
味は塩と肉と小麦と酢と生姜で成立している。
癖のなさが、弱さではなく、普遍性になった。
そして普遍性は、輸出されやすい。
さらに、サービスや清潔さは、国ごとに期待値が違う。
そこを「高い基準」に寄せて整えたことが、店を高級店として固定させた。
18のひだに込められたもの
鼎泰豊の小籠包は、驚くほど均一で、整っている。
どの皿にも同じ数のひだがあり、同じ厚さの皮があり、同じ温度のスープが入っている。
それは美しさであると同時に、生存の形でもある。
内戦で故郷を失い、油屋としての商売が時代に押し流され、別の形で生きる道を探した一家が作った秩序だ。
混乱の中で、偶然に任せない。
揺れを減らし、再現できる形にする。
その積み重ねが、台北の一店舗を世界へ運んだ。
鼎泰豊を食べるとき、私たちは「美味しい小籠包」を食べている。
同時に、台湾が受け入れて磨き上げた一つの文化の完成形にも触れているのかもしれない。
蒸籠の蓋を開ける。
湯気が立つ。
その短い時間の中に、亡命と都市化と、仕事のやり直しが折り畳まれているように見えることがある。







