台湾・水餃子(水餃)についての記録

台湾の街では、水餃が専門店の看板にも冷凍庫の商品にもなり、店では一個単位で食べる数まで選べる。米を主食としてきた土地で、北方の麵食だった料理が、これほど自在な日常食として並んでいる。

台湾の水餃についての記録

台湾で水餃(シュイジャオ)を食べるのは難しくない。街には水餃を看板にした店があり、八方雲集(パーファンユンジー)や四海遊龍(スーハイヨウロン)のようなチェーンでも気軽に注文できる。スーパーへ行けば冷凍水餃が何種類も並び、家では必要な数だけ鍋に入れれば一食になる。いまの台湾では、あまりにも普通の食べ物だ。

けれども台湾は、もともと米を主食としてきた土地だ。小麦粉の皮で肉や野菜を包む水餃は、中国北方の食文化と強く結びついている。それがなぜ、台湾でこれほど普通の食べ物になったのか。

「1949年前後に中国大陸から来た人々が持ち込んだ」と言えば、大まかな方向は合っている。ただ、それだけでは現在の台湾の水餃までは説明できない。水餃そのものは、それより前から台湾にあった。

戦後には、水餃を日常的に食べる人々が台湾へ移ってきた。その後、大量の小麦が供給され、小麦粉を料理する方法まで広められた。さらに店が包み、工場が包み、チェーン店が街中で売るようになる。

台湾の水餃の歴史は、料理が一度海を渡って終わる話ではない。


戦前の酒楼にあった水餃

1949年以前の台湾にも、水餃は存在した。1927年末から翌年にかけて、台北の江山樓主人だった吳江山は『臺灣日日新報』に「臺灣料理の話」を連載した。その中に水餃が登場する。水餃をもとに、四つの花弁のような四方餃、菱の実をかたどった龍角餃、石榴の形をした榭榴餃など、形や味を変えた点心も作られていた。

1930年代の蓬萊閣の菜譜にも、水餃、三角餃、四方餃、菱角餃、梅花餃、菊花餃など、多くの餃類が並ぶ。こうした手の込んだ餃子は宴席の点心として出されることが多く、違いは主に形にあったという。「水餃は1949年に初めて台湾へ来た」という説明は、ここで成り立たなくなる。

ただし、この水餃を現在の街角の水餃店と同じものとして見るのも違う。江山樓や蓬萊閣は、大稻埕を代表する高級酒楼だった。吳江山は北京、広州、天津などを巡って各地の調理法を学び、四川料理の料理人も招いていた。蓬萊閣にも広東から料理人が迎えられている。当時の酒楼は、台湾の在来料理だけを出す場所ではなく、中国各地の料理や技法を取り込む場所でもあった。水餃も、その広い料理世界の中にあった。

戦前の台湾に水餃は存在した。ただ、残っている資料は、一般家庭が毎日の食事として広く食べていたことまでは示していない。

戦後に大きく変わったのは、水餃そのものより、それを食べる人と場所だった。


水餃を日常食にする人々が台湾へ来た

1949年前後、中国大陸から多くの軍人、公務員、その家族たちが台湾へ移った。彼らが持ち込んだのは料理名だけではない。饅頭(マントウ)を蒸し、麵を打ち、燒餅(シャオビン)を焼き、水餃を包む生活そのものだった。

戦前の酒楼にあった水餃とは、ここが大きく違う。料理人が宴席のために作る点心ではなく、家庭で作り、家族で食べるものだった。眷村(けんそん)をはじめとする戦後台湾の生活空間には、中国各地から来た人々の麵食文化が持ち込まれた。

1949年に起きたのは、水餃という新しいレシピが一つ増えたことではない。水餃を普通の食事として知っている人口そのものが、一気に増えた。

水餃はここで、戦前の酒楼の点心とは別の道から、誰かの家庭料理として台湾に入ってきた。ただし、それでもまだ台湾社会全体の食べ物ではない。米を中心に食べてきた台湾社会で小麦料理が広く日常化するには、食べる人の移動とは別の条件も必要だった。

台湾・1949年の大撤退についての記録

朝の豆漿と燒餅、昼の牛肉麺、夜の水餃。米を中心にしてきた台湾の街で、山東や四川、江南につながる料理が、出身地を示す札もなく日常の食卓に並んでいる。

世界の片隅でいただきます

美援小麦と「以麵代米」

1950年代の台湾には、美援(米国援助)として大量の小麦が入ってきた。1950年代半ばには、台湾の製粉業が使う小麦をすべて美援小麦が賄っていた時期もある。台湾で麵食が広がった背景には、中国大陸からの移住者だけでなく、小麦そのものの大量供給があった。

台湾政府にも、小麦を広める理由があった。当時、国際市場では白米の価格が小麦より高かった。安い小麦を輸入して台湾で食べ、その分の米を輸出すれば、外貨を得られる。

1950年代、政府は「以麵代米」を進めた。単純に米の代わりに小麦粉を配る政策ではない。軍人や公務員、教員が配給の白米を麵粉に替えると、米より多い量を受け取れる仕組みが作られた。対象はその後、鉱山労働者や貧困世帯、農民などにも広がり、農村では籾と精製麵粉を交換する「麵粉換穀」も行われた。小麦を食べる側に、経済的な誘因がついた。

戦後、水餃を含む麵食を日常的に食べる人々が台湾へ来た。そこへ、それを作るための小麦が大量に供給された。人と原料が同じ場所に揃った。

けれども、小麦粉が手に入るだけで、米を炊いて暮らしてきた家庭が水餃や饅頭を作れるようになるわけではない。次に広められたのは、小麦粉そのものの食べ方だった。


小麦粉の食べ方を広める

1962年、美援会と台湾区麵粉同業公会は協力して「臺灣區麵麥食品推廣執行委員會」を設立した。台北や台中などに麵食の普及拠点が置かれ、講習や実演が行われた。農村復興聯合委員会(農復会)の雑誌『豐年』も、農村の女性に向けて饅頭や蔥油餅(ツォンヨウビン)などの作り方を図解で紹介していた。小麦粉を輸入するだけでなく、それをどう食べるかまで伝えられた。

1962年の麵食実演の献立には、水餃も入っていた。もちろん、水餃だけを特別に普及させる活動ではない。饅頭、包子(パオズ)、麵、餅などを含む麵食全体を広げる活動だった。

戦後に大量に持ち込まれた水餃や饅頭などの麵食を、家庭で日常的に作る技術は、台湾社会全体に広く共有されていたわけではない。戦後に移住してきた人々が持っていた調理法が、講習や出版物を通じて、別の家庭にも伝えられるようになった。水餃が台湾の日常食になった理由を、1949年の人口移動だけで説明できないのはこのためだ。

食べる人が来た。小麦が供給された。そして、小麦を料理する技能まで広められた。この三つが重なって、水餃は特定の出身者の家庭料理から外へ出られる条件を持った。


水餃を店で食べるようになる

1960年代には、水餃を食べる場所にも変化が起きる。1961年に台北の屋台から始まったとされる東門餃子館のような餃子店も、この頃に現れた。

こうした店は、水餃を作る人と食べる人を切り離した。家庭で水餃を作るなら、小麦粉を練り、皮を伸ばし、餡を作り、一つずつ包まなければならない。店へ行けば、その工程は要らない。水餃を食べるために、自分で水餃を作れる必要がなくなった。

水餃は家庭の麵食であると同時に、街でお金を払えば食べられる外食にもなった。やがて「包む仕事」は、店の厨房だけでなく食品工場にも移り始める。


冷凍水餃が広がる

1970年代後半には、水餃を商品として家庭へ届ける食品会社が現れる。1977年創業の旗山龍鳳は、水餃から事業を始めたとされる。翌1978年には奇巧食品が設立され、水餃や鍋貼(グオティエ)などの麵点を扱うようになった。

奇巧食品は、町を回る「小蜜蜂」と呼ばれる販売車と組むところから始めたという。報道によれば、1980年代はまだスーパーが普及しておらず、水餃の販売は小蜜蜂や地方の雑貨店に頼っていた。やがて水餃は、冷凍保存して家庭で茹でる食品としても広がっていった。

そこで効いたのが、水餃そのものの形だったのかもしれない。水餃は、包んだ時点で一個ずつ独立している。一つずつ凍らせ、必要な分だけ取り出せる。5個でも10個でも20個でもいい。残りはそのまま保存できる。

食べるときも扱いやすい。凍ったまま必要な数を茹でれば、一食になる。麵料理のようにスープと具材を別々に整える必要もなく、飯物のように最初から一人前の量を決めておく必要もない。小麦の皮に、肉と野菜の餡が包まれている。一皿だけでも食事として成立しやすい。

水餃は冷凍技術によって無理に加工食品へ変えられたというより、もともとの形が保存と分割に向いていたとも考えられる。家族が集まって一つずつ包む料理だった水餃は、その形をほとんど変えないまま、冷凍庫から必要な数だけ取り出す料理にもなった。


水餃チェーンが広がる

1990年代には、水餃を専門に扱うチェーンが現れる。四海遊龍は1993年に創業し、鍋貼と水餃を中心に店舗を広げた。1998年には八方雲集が創業し、同じく鍋貼と水餃を軸に台湾各地へ展開した。八方雲集は現在、台湾だけで千店を超える。

ここまで来ると、水餃は北方の家庭料理や眷村の料理という枠だけでは捉えられない。都市で安く、短時間で食べられる外食になる。水餃には一個ずつ値段がつき、食べたい数だけ注文できる。少し食べるなら数を減らし、空腹なら増やす。鍋貼や麵、スープと組み合わせることもできる。

この仕組みは、冷凍水餃とよく似ている。家庭では必要な個数だけ取り出して茹でる。店では必要な個数だけ注文する。一個ずつ独立しているという水餃の形が、冷凍食品にもチェーン店にもそのまま使われた。

北方の家庭で家族が包んでいた料理は、台湾では昼休みに必要な数だけ買う料理にもなった。

台湾・八方雲集についての記録

台湾の街角で、黄色と赤の看板の下に学生や会社員が次々と入っていく。店内では、両端の開いた細長い鍋貼を、味ごとに1個単位で伝票へ書き込んでいる。

世界の片隅でいただきます

台湾の日常食になった水餃

現在の台湾で水餃を食べるとき、その背後にこうした経緯を意識することはほとんどない。街の店で何個か頼めば、皿に並んで出てくる。家なら冷凍庫から取り出し、湯を沸かせばいい。そこまで普通の食べ物になった。

けれども、その普通さは最初からあったわけではない。戦前の酒楼にはすでに水餃があった。戦後になると、水餃を家庭で日常的に食べる人々が台湾へ移ってきた。そこへ美援小麦が入り、政府と業界が麵食そのものを普及させた。水餃を包む仕事は家庭から店へ、さらに食品会社へ移り、最後には台湾全土に広がるチェーンの定番商品になった。

どれか一つだけで、現在の台湾の水餃ができたわけではない。別々に起きた変化が重なり、水餃を食べるために必要だった手間や知識が少しずつ減っていった。

いま台湾で水餃を食べるために、その作り方を知っている必要はない。店でも、冷凍庫でも、すでに包まれた水餃が待っている。

水餃が台湾の日常に根付いた過程は、誰もが水餃を作るようになる歴史というより、作れなくても、いつでも食べられるようになっていく歴史でもあったのだろう。

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