―― 隠れた鶏肉飯の王者 ――
台北を歩いていると、あの顔に出会う。
丸い頬と整えられた口髭。どこか安心感のある表情。
髭須張魯肉飯(ひげ張)の看板だ。
駅の近く。大通り沿い。時には住宅街の角。
このロゴは、街の中に繰り返し現れる。
屋台の倍以上の価格。
それでも客足は途切れない。
店内に入ると、冷房が効いている。
床は乾いている。
制服を着た店員が淡々と動いている。
ここで売られているのは、単なる魯肉飯ではない。
品質、サービス、清潔。いわゆるQSCが揃った食事環境である。
民俗料理は、本来不確実なものである。
味も衛生も、その時々に左右される。
ひげ張はその揺らぎを取り除いた。
魯肉飯を、偶然の産物から、再現可能な食事へと移し替えた。
人々はここで「確実に食べられる」という安全を買っている。
この店は、現代台湾における食のインフラの一部のようにも見える。
二番手に潜む静かな支持
しかし店内を見渡すと、少し奇妙な光景がある。
多くの客が、鶏肉飯(ジーローファン)を食べている。
豚肉の店であるにもかかわらず、である。
メニュー上では二番手。
だが、添え物ではない。
魯肉飯を注文する客の隣で、
同じ頻度のように鶏肉飯が運ばれていく。
こってりした脂を避けたい者。
体調を気にする者。
あるいは単に、この店の鶏肉飯を好む者。
支持は派手ではない。
だが持続している。
ここで一つの疑問が生じる。
なぜ「魯肉飯の王」の店で、これほど鶏が選ばれるのか。
王者の不在という市場
魯肉飯には象徴がある。
ひげ張という、誰もが思い浮かべる名前が。
だが鶏肉飯には、それがない。
台湾全土を見渡しても、
全国規模で展開する鶏肉飯チェーンは存在しない。
国民食でありながら、
市場は無数の個人店によって分割されている。
どの街にも店はある。
だが、どの店も代表ではない。
王のいない荒野。
その状態が長く続いている。
「嘉義火鶏肉飯」という錯覚
街を歩くと、
「嘉義火鶏肉飯」と書かれた看板に繰り返し出会う。
赤い文字。似た構え。
遠目には同じ店のように見える。
しかし、それらは同一資本ではない。
本部もなければ、統一レシピもない。
地名を掲げた個人店の集合体である。
「サヌキうどん」や「博多ラーメン」と同じ構造に近い。
料理の方向だけを示す記号。
それ以上ではない。
この現象は台湾では珍しくない。
永和豆漿(ヨンハントウジャン)。
朝食屋の代名詞だが、統一チェーンではない。
美而美(メイアルメイ)。
赤と黄色の看板が各地にある。
だが多くは暖簾分けや模倣で、緩やかな概念に過ぎない。
こうした「幽霊チェーン」が街の視覚を占める。
結果として、強い資本系チェーンが育ちにくい土壌が
形成されているようにも見える。

誰が最も鶏肉飯を売っているのか
ここで一つの仮説が浮かぶ。
全国チェーンが存在しないなら、
単一ブランドとして最も鶏肉飯を売っているのは誰か。
答えは、意外な方向に向かう。
鶏肉飯専門店ではない。
魯肉飯の店、ひげ張ではないか。
直営とFCを含めた店舗数。
昼夜の回転率。
そして「隠れた人気」としての注文数。
これらを重ねると、
この髭の巨人が、実は鶏の最大販売者である可能性が見えてくる。
専門店たちが看板の統一感に留まっている間に、
実体のあるチェーンが市場を静かに覆っていく。
少し皮肉な構図である。
システム化された鶏の味
運ばれてくる碗は小ぶりで、魯肉飯と同じ形をしている。
白い飯の上に、細く裂かれた肉。
黄金色の鶏油。
多くの場合、七面鳥ではなく鶏肉だろう。
香りは軽い。
脂は控えめ。
魯肉飯が重力を持つ味だとすれば、
こちらは浮力のある味に近い。
屋台のような手作り感は薄い。
だが塩味、油、肉の湿り気が整っている。
偶然の美味しさではない。
管理された美味しさである。
どの店でも同じ味に出会える。
その再現性が、この店の特徴でもある。
逃げ場を備えたインフラ
ひげ張の強さは、
魯肉飯だけに依存していない点にある。
豚を食べたい客。
鶏を食べたい客。
どちらも受け止める。
重さと軽さ。
二つの選択肢が並んでいる。
屋台では、こうはいかない。
店主の得意な一品に依存することが多い。
だがここでは、
システムが客の気分を吸収していく。
専門店ではない店が、
結果としてジャンル最大の販売量に到達しているとすれば、
そこにチェーンの本質があるのかもしれない。
それは派手な征服ではない。
静かな浸透である。
この髭のロゴを街で見かけるたび、
人は無意識に理解する。
ここに入れば、何かしら食べられる。
そして、大きく外れることはない。








