―― 湯気の向こう側にある「日常」へ入る方法 ――
台湾の街歩きで、最も心が躍る場所がある。
同時に、最も敷居が高く見える場所でもある。
それがローカル食堂、小吃店だ。
湯気の向こうでは、中国語が飛び交い、鍋が鳴り、油が弾く。
観光客を拒んでいるようにも見えるこのカオスは、
実のところ、極めて合理的な「日常の機能美」でできている。
ここでは、その流れに無理なく入るための所作を、順に記録していく。
最初の分岐点「内用」と「外帯」
店に入ると、ほぼ例外なく最初に問われることがある。
それが、食べ方の選択だ。
内用(ネイヨン)。
外帯(ワイタイ)。
内用は、店内で食べること。
外帯は、持ち帰りだ。
言葉が流暢である必要はない。
席に座りたいなら、人差し指を一本立てて、短く「ネイヨン」と言えばいい。
この一言で、契約は成立する。
ここで曖昧な笑顔は役に立たない。
意思表示は、短く、明確に。
それがこの場の礼儀でもある。
赤い鉛筆と一枚の伝票
席に通されると、空気が少しだけ緩む。
テーブルの上には、薄い紙のメニューと、赤い鉛筆が置かれている。
口頭で慌てて注文する必要はない。
この伝票こそが、異邦人を守るための装置だ。
最初にやるべきことがある。
料理を選ぶ前に、必ず卓號、テーブル番号を書くこと。
これが抜けると、料理は完成しても行き先を失い、永遠に厨房に留まる。
香菜の有無や、量の調整も、ここで静かにチェックを入れればいい。
声を張り上げる必要はない。
「あー?」という音圧に怯えない
伝票を渡す時、あるいは何かを尋ねた時。
店員が眉をひそめ、低い声で「あー?」と返してくることがある。
日本語の感覚では、威圧や不機嫌に聞こえるかもしれない。
だが、少し観察すれば分かる。
換気扇の音。
鍋の衝突音。
周囲の会話。
単純に、音が届かなかっただけだ。
ここで謝る必要はない。
愛想笑いもいらない。
真顔のまま、少し声量を上げて、同じ言葉をもう一度言う。
この街では、それが標準的な通信速度だ。
棚の上の「小菜」
文字だけのメニューでは分からないものが、店の奥に並んでいる。
干し豆腐、煮卵、ピーナッツ、海藻。
小菜と呼ばれる副菜だ。
ルールは単純だ。
自分の目で見て、食べたいものを取り、テーブルに運ぶ。
誰かに断る必要はない。
会計時に、自然と加算される。
この自律的な動きが、食堂の回転を支えている。
赤い文字が残る
食べ終えたら、会計をする。
先払いの場合もあるが、前の客の動きを真似ればいい。
台湾の人はおおらかなのでトラブルになることは無い。
手元には、赤いチェックが入った伝票の控えが残る。
そして、満たされた胃袋。
「あー?」という音圧に怯えず、
作法通りに食事を終えた時、
私たちは一瞬だけ、観光客ではなく、
台湾の風景の一部としてそこに溶け込んでいる。
コメント