―― パリを模した、人口40万人の未来図――
1941年。
完成したばかりの高雄駅の前に立つ。
背後には、瓦屋根を載せた重厚な駅舎。
しかし、正面には建物がない。
視界にあるのは、
田んぼと、異様に広い一本道だけだ。
都市に必要なはずの「街」がなく、
先に「骨格」だけが置かれている。
現代の高雄の輪郭は、
この奇妙な光景から始まった。
人口40万人という大風呂敷
1936年。
日本統治下で策定された『高雄都市計画』。
当時の高雄の人口は、せいぜい10万人前後だった。
それにもかかわらず、計画が想定した将来人口は40万人。
4倍である。
工場も、住宅も、
まだ何も埋まっていない土地に、
4倍分の道路とインフラを先に敷く。
これは堅実な計画というより、
実験に近い。
都市は成長する、
という前提を疑っていない。

昭和通りという「無駄」
駅前から南へ伸びる中山路。
かつての名前は、昭和通り。
幅は40メートルを超える。
当時の交通量を考えれば、
明らかに過剰だった。
防火帯としての機能。
軍事利用の可能性。
あるいは、将来の凱旋道路。
理由は一つではない。
ただ確かなのは、
この「無駄な広さ」が、
後の高雄を助けたという事実だ。
車社会にも、地下鉄工事にも、
余白は必要だった。
東洋のパリという発想
計画図を見ると、
交差点ごとに円が描かれている。
ロータリーである。
碁盤の目に、放射線を重ねる。
パリ型の都市構造。
象徴的なのが、
現在の美麗島駅周辺だ。
かつてここには、
大きな円環交差点があった。
戦後の交通量増加に耐えきれず、
多くは撤去されたが、
記憶は消えていない。
地下のガラスドームは、
その名残のようにも見える。

未完のまま、時間が止まる
計画は、完成しなかった。
戦争が激化し、
建物が埋まる前に止まった。
道はある。
家はない。
スカスカの都市で、
終戦を迎える。
普通なら、
失敗と呼ばれる状況だ。
80年遅れの回収
だが戦後。
高雄には人が流れ込む。
その時、
広すぎる道路網が力を発揮した。
土地買収は不要。
地下には余裕。
街は詰まらない。
1936年の過剰投資は、
80年かけて回収された。
珍しい都市である。

足元に残る設計図
今、駅前を歩く。
中山路を渡る。
美麗島で乗り換える。
私たちは、
気づかないうちに、
1936年の図面の上を歩いている。
田んぼの真ん中に、
パリを作ろうとした話。
それは誇張でも、
美談でもない。
ただ、
都市が先に準備されていただけだ。


