―― 台北から40km離れた場所に造られた「未完の空港」 ――
松山空港が「都市の空港」なら、
桃園空港は最初から「国家の空港」として構想された。
1970年代、台湾は国連を脱退し、外交的に孤立していた。
その危機感の中で蒋経国が推し進めたのが、いわゆる「十大建設」だ。
高速道路、港湾、発電所、そして国際空港。
台北市内にある松山空港は、盆地に囲まれ拡張が不可能だった。
市街地の制約から脱し、
「世界と接続する拠点」を新たに作る必要があった。
選ばれたのが、台北から約40km離れた桃園の台地。
当時は畑と荒野が広がる場所だった。
遠い。
不便だ。
それでもここに造る。
この距離は、偶然ではなく意思の距離だった。
第1ターミナルの中華モダニズム
多くの旅行者が最初に通過する第1ターミナル。
天井を見上げると、わずかに反った屋根のラインに気づく。
この建築は、アメリカ・ダレス国際空港の影響を強く受けている。
エーロ・サーリネンが設計した、
モダニズムの象徴のような空港建築だ。
ただし桃園は、単なるコピーでは終わらなかった。
1970年代の台湾では「中華文化復興運動」が進められており、
近代建築の中に、伝統的な「反り」を重ねる必要があった。
結果として生まれたのが、
中華的意匠をまとったモダニズム建築だった。
2013年の大規模リノベーションでは、
日本人建築家・団紀彦が設計を担当した。
古いコンクリートを壊すのではなく、
木材とガラスの屋根で包み込むように再生する。
否定しない。
消さない。
上から静かに重ねる。
この姿勢は、台湾の都市更新そのものにも似ている。
名前が語るアイデンティティ
開港当初、この空港の名前は
「中正国際空港(CKS Airport)」だった。
蒋介石(蒋中正)の名を冠した、
明確な権威主義の象徴である。
2006年、陳水扁政権下で名称は変更される。
「台湾桃園国際空港」。
地名が前に出た。
「中華民国」ではなく、「台湾」が前面に出た。
空港の名前は、
単なるラベルではない。
それは、
この島がどこへ向かおうとしているのかを示す
政治的なメッセージでもある。
半導体を運ぶ「シリコンの港」
桃園空港の真価は、
旅客数よりも貨物にある。
TSMCをはじめとする半導体産業。
その中核となるチップは、
船ではなく飛行機で運ばれる。
時間が価値になる産業にとって、
空港は港であり、動脈だ。
免税店が並ぶターミナルの裏側で、
世界経済を左右するシリコンが
淡々と積み込まれていく。
桃園空港は、
台湾の「シリコンシールド」を
物理的に世界へ送り出す装置でもある。
未完であり続ける巨大建築
桃園空港は、いつ来てもどこかが工事中だ。
第3ターミナル建設。
第3滑走路計画。
完成するのはまだ先だ。
だが、それは欠陥ではないのかもしれない。
台湾という国家そのものが、
常に更新され、揺れ動き、形を変え続けてきた。
空港もまた、
固定された完成を拒む。
拡張し、重ね、書き換え続ける
メタボリズム(新陳代謝)の建築。
台北から40km。
その距離の先にあるのは、
台湾が世界とどう接続しようとしてきたか、
その記録そのものだ。
■関連記事:空港MRT
■関連記事:他の台湾の空港
■関連記事:台湾の移動システム
コメント