―― 小籠包を飲み込んだ麵食館 ――
台湾で蒸餃(ヂェンジャオ)を食べようと思うと、少し困る。
蒸餃専門店というものが、ほとんど存在しないからだ。
焼き餃子なら鍋貼(グォティエ)専門の店がある。
水餃子なら水餃(スイジャオ)だけを売る店がある。
しかし蒸餃は、単独で看板を掲げることがない。
蒸餃を食べるためには、
蒸餃を売っている店を探すのではなく、
蒸餃が載っているメニューを探すことになる。
なぜこの料理には、自分の店がないのか。
「スープのない小籠包」という誤解
台湾における蒸餃(ヂェンジャオ)の立ち位置は、奇妙なほど曖昧だ。
高級店の小籠包(シャオロンバオ)の隣に並んでいるかと思えば、
街角の食堂で鍋貼(グォティエ)や乾麺と一緒にメニューに載っている。
同じ竹の蒸籠に入って提供されるため、
多くの人はこれを「小籠包の仲間」だと思い込む。
そして、噛んでもスープが溢れ出ないことから、
「スープのない小籠包」「少しパサついた点心」という評価を受けることが多い。
しかし、それは根本的な誤解だ。
なぜこれほどまでに、蒸餃の輪郭はぼやけてしまったのか。
その答えは、二つの料理が歩んできた、
まったく異なる歴史の中にある。
小籠包の血統——南の茶館と、液体の娯楽
小籠包の故郷は、中国大陸の長江下流域、
いわゆる江南地方・上海周辺だ。
温暖で物産が豊かなこの地域は、
古くから商業と文化の中心地だった。
料理としての位置づけは「點心(ディエンシン)」、
つまりおやつや軽食にあたる。
富裕層や文人、商人たちが茶館でくつろぐための、
娯楽としての食事だ。
腹を満たすことは、主目的ではない。
その目的のため、小籠包は極端な構造を持っている。
皮は限界まで薄く伸ばされ、
炭水化物としての存在感は消されている。
餡の中には、豚の皮などを煮詰めた「皮凍(ピードン)」、
つまり煮こごりが練り込まれている。
蒸気で加熱されると、それが溶けて液体に変わる。
スープは、人為的に生み出されたものだ。
食べ方にも作法がある。
レンゲに乗せ、黒酢と細切りの生姜を添え、
火傷を避けながら慎重にスープをすする。
食べる側に優雅な所作を求める、
極めて洗練された都市の料理だった。

蒸餃の血統——北の大地と、生存のための食事
一方、蒸餃のルーツは黄河流域を中心とする中国北方にある。
冬には凍てつく寒風が吹く、
厳しく乾燥した大地だ。
料理としての位置づけは、明確な「主食」だ。
農民や肉体労働者、兵士たちが、
過酷な環境を生き抜き、体を動かすためのエネルギー源として食べるものだ。
小籠包のような遊戯性は、一切排除されている。
皮は、小麦粉を熱湯で練り上げた「燙麵(タンミェン)」で作られる。
分厚く、強い弾力がある。
食べ応えそのものが、目的のひとつだ。
餡に皮凍は使わない。
豚肉、白菜、キャベツ、ニラをみっちりと詰め込み、
素材から自然に滲み出る肉汁だけを閉じ込める。
食べ方も異なる。
レンゲは使わない。
箸で無造作に掴み、濃い醤油ダレにつけ、
生のニンニクをかじりながら胃袋へと流し込む。
そこにあるのは、純粋に体を動かすための食事だ。

交わることのなかった、二本の平行線
本来、これら二つの料理が同じ食卓に上ることはあり得なかった。
南の江南地方と北の黄河流域。
地図上では、数千キロの距離がある。
そして、「茶館で優雅に茶をすする商人」と、
「泥や汗に塗れた農民や労働者」という、
決して交わらない階級の壁もあった。
大陸において、高級な江南の茶館で
ニンニク臭い無骨な蒸餃が出されることはなかった。
北方の吹きさらしの食堂に、極薄の小籠包が存在することもなかった。
両者は、完全に別々の食文化として存在していた。
だが、この二本の平行線は、
1949年という歴史の特異点において、
台湾という狭い島へ同時に押し込まれることになる。

小籠包を飲み込んだのは、北の職人たちだった
なぜ蒸餃と小籠包は同じメニューに並んでいるのか。
「小籠包の店に、蒸餃が入り込んだ」のではない。
真実は逆だ。
路地裏の麵食館、つまり北方の小麦料理を出す食堂が、
南の高級点心である小籠包を、
自分たちのメニューに取り込んでいったのだ。
経済が発展する中で、街角の麵食館は客を呼ぶ必要があった。
そこで、見よう見まねで小籠包を作り始める。
もともと彼らは、小麦粉を練ることに長けていた。
蒸籠も、厨房にあった。
道具も技術の基礎も、すでに持っていた。
こうして、北方の職人たちが小籠包を大衆化し、
自分たちの厨房に静かに飲み込んでいった。
蒸餃が主役だった厨房に、小籠包が加わった。
気づけば、小籠包の方が目立つようになっていた。

鼎泰豊という、北方の麵食館
この歴史のねじれを最も象徴しているのが、
鼎泰豊(ディンタイフォン)だ。
世界中で「台湾を代表する小籠包の店」として知られている。
ミシュランの星を獲得し、
東京、上海、ニューヨーク、シドニーに店を構える。
創業は1958年。
山東省出身の楊秉彝(ヤン・ビンイー)が、
台北・信義路に食用油の販売店として開いたのが始まりだ。
屋号の「鼎泰豊」は、仕入れ元だった油問屋の名前から取られた。
1970年代、油の小売業が斜陽になると、
店の一角で点心を売り始める。
このとき、楊氏は江南出身の点心師を雇い入れ、
小籠包の製法を厨房に導入した。
それが転機になった。
小籠包の評判が広がり、
やがて油の販売をやめ、点心と麺料理の店へと転換する。
1993年、ニューヨーク・タイムズが世界の10大レストランのひとつに選んだことで、
国際的な知名度を一気に得た。
しかし、メニューを冷静に見ると、気づくことがある。
牛肉麺(ニウロウミェン)、炸醤麺(ジャージャンミェン)、排骨(パイグー)、炒飯、そして蒸餃。
小籠包の隣に並んでいるのは、江南の点心ではない。
完全に北方の麵食館のラインナップだ。
創業者は山東省出身で、油問屋から出発した。
点心師を外から雇って小籠包を導入した。
それが世界的な「小籠包の聖地」として認識されている。
鼎泰豊とは、純粋な点心屋ではない。
南の最強の武器を手に入れた北方の麵食館が、
世界最高レベルにまで自らを磨き上げた姿、
ともいえるかもしれない。
沈黙を守る、最も実直な主食
小籠包が台湾の日常に根付き、
街の麵食館を席巻していく過程で、
もともとその厨房の主役だった蒸餃の立ち位置は、
ひっそりと曖昧になっていった。
小籠包の強烈な個性の影に、静かに隠れてしまったのだ。
しかし、台湾人はその本質を、無意識のうちに理解しているようにも見える。
蒸餃を食べるとき、
レンゲを使う人はほとんどいない。
箸で無造作に掴み、濃い醤油ダレにつけ、
左手に持った生のニンニクを直接かじりながら食べる。
小籠包の作法とは、まったく異なる食べ方だ。
外見は南方の点心のように蒸籠に収まっていても、
ニンニクと共に口に入れた瞬間、
その中には北方の食事の質感が残っている。
専門店を持たず、
小籠包の隣で目立たないまま、
それでも蒸餃は台湾の食堂のどこかに必ずある。



