MENU

台湾・マンゴーの首都 玉井についての記録

台湾でマンゴーの話をすると、話題は自然と玉井に収束する。
産地というより、首都。
そう呼ばれる理由が、この町にはある。

玉井の青果市場に足を踏み入れると、まず量に圧倒される。
体育館のような屋根の下、視界の端から端まで籠が並ぶ。
籠の中はすべてマンゴーだ。

甘い匂いが空気を満たし、外よりも市場の中のほうが濃度が高い。
ここではマンゴーが特別な果物ではない。
景色そのものになっている。

なぜ、この内陸の小さな町が、ここまでマンゴーに覆われるようになったのか。
答えは気候だけではない。
一人の農夫と、白い紙袋の話に行き着く。


拒絶された異邦の果実

1950年代。
当時の台湾でマンゴーといえば、緑色で小ぶりな在来種だった。
繊維が多く、酸味も強い。

そこへ、アメリカ・フロリダから赤いマンゴーが持ち込まれる。
アーウィン種、後に「愛文」と呼ばれる品種だ。

大きく、滑らかで、色も美しい。
しかし台湾の環境は、この果実に厳しかった。

高温多湿。
害虫。
病気。

各地の試験農場で栽培は失敗し、
「台湾の土には合わない」という評価が定着していく。
赤い果実は、異邦人のまま放置されかけていた。


鄭罕池と白い紙袋

その流れに逆らった農家が、玉井にいた。
鄭罕池
1962年、彼は枯れかけた愛文の木を前に、それでも手を止めなかった。

彼が辿り着いた方法は、単純で、気の遠くなるものだった。
果実が小さいうちに、一つ一つ紙袋を被せる。

白い紙袋は、害虫を防ぐ。
直射日光を和らげる。
内部に、適度な湿度と暗さを作る。

その結果、赤い色が安定し、甘みが乗った。
愛文は、初めて台湾で「生き延びる形」を見つけた。

今、玉井の郊外を走ると、
木々の間に無数の白い点が浮かんでいる。
遠くから見ると、白い花が咲いているようにも見える。

あれはすべて、果実を包む紙袋だ。
鄭罕池の方法が、そのまま風景になった。


富を囲わなかった判断

この成功は、独占もできた。
鄭罕池が方法を秘匿していれば、
愛文マンゴーは彼一人の財産になっていただろう。

しかし彼は、技術を近隣の農家に伝えた。
苗木も分けた。
無料だった。

理由は単純だ。
「村が豊かにならなければ意味がない」。

その判断が、玉井全体を変えた。
個人の成功ではなく、地域の作物になったことで、
玉井は「産地」ではなく「王国」になった。

市場に積み上がるマンゴーの量は、
技術そのものよりも、この判断の結果だ。


甘さの奥に残るもの

市場で完熟マンゴーを買う。
切ると、果汁が刃にまとわりつく。
口に入れると、舌より先に香りが広がる。

この甘さは、太陽だけの味ではない。
失敗を見て見ぬふりしなかった人間の執念と、
それを囲い込まなかった選択の味が混じっている。

だから玉井は、毎年マンゴーの季節になると人を集める。
果物を買いに来るのではなく、
この場所が生んだ結果を、確かめに来るのだ。


よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次