―― 南国の島で育つ日本の米 ――
台湾で魯肉飯を食べる日本人は、ある事実に気づくことがある。
米が粘っている。
ベトナムやタイなど、同緯度の東南アジア諸国の主食は、パサパサとした長粒種(インディカ米)である。
それが普通の景色になっている。
しかし台湾の食卓には、日本と同じ丸くて粘りのある短粒種(ジャポニカ米)が並ぶ。
箸で持ち上げても崩れにくい。
丼のタレが米に絡み、最後までまとまっている。
気候的に育つはずのない北の米が、なぜ南国の台湾の主食になったのか。
その背後には、1918年の日本の騒動と、二人の日本人の執念があった。
「在来米(ザイライミ)」の時代
19世紀までの台湾の風景では、主役はインディカ米(長粒種)だった。
現在の台湾では、これを在来米と呼ぶ。
硬く、粘り気がない。
箸で持ち上げると崩れる。
米粒は細く、噛むとさらりとしている。
当時の人々にとって、これが当たり前のご飯だった。
それ以外の米が、特別に必要とされていたわけではない。
現在、在来米は劣っているわけではない。
加工に適している。
米粉(ビーフン)、大根餅(ルオボーガオ)、碗粿(ワーグイ)など、台湾の伝統的なB級グルメの原料は、今でもこの在来米である。
粘り気のない米だからこそ、粉にしたときに独特の食感を生む。
台湾の食卓から消えずに残っている理由も、そこにある。

1918年の「米騒動」と国策
1918年、日本本土でコメ価格が高騰し、米騒動が起きた。
政府は植民地である台湾を食糧供給基地とする計画を立てた。
命令は単純だった。
日本人が食べられる米(ジャポニカ米)を、台湾で作って送れ。
そういう圧力がかかった。
ただ、壁があった。
日本の種をそのまま台湾に植えても、うまくいかなかった。
日照時間の違いなどで穂が出ず、失敗が続いた。
米はできても、米にならない。
そういう状態だった。
蓬莱米の開発
そこで現場にいたのが、台北帝国大学(現・台湾大学)の研究者、磯永吉と助手の末永仁だった。
彼らは、台湾の山地にあった日本の品種と、別の品種を交配させる実験を繰り返した。
試して、失敗して、また試す。
その繰り返しが続いた。
研究室の仕事というより、執念の作業に近い。
数年の失敗を経て、1926年、台湾の気候でも育ち、かつ日本人の口に合う粘り気を持つ新品種が完成する。
台北の鉄道ホテルで行われた大会議で、この米は蓬莱米(ポンライミ)と名付けられた。
こで、米の血脈が切り替わった。
ただし、この時点ではまだ、名前が付いたという段階でもあった。
蓬莱米という「台湾のジャポニカ」
蓬莱米は、台湾で育つジャポニカ米として設計された。
見た目は丸く、炊くと粘りが出る。
日本の米に近い。
ただ、日本の米をそのまま持ち込んだものではない。
台湾の気候で穂が出るように調整された品種だった。
暑さと日照の条件に適応させる必要があった。
この米が普及すると、台湾の食卓の形が変わっていく。
丼ものが成立しやすくなる。
汁気のあるおかずを受け止める土台が強くなる。
魯肉飯や排骨飯のような料理は、タレを吸う米が必要になる。
蓬莱米は、その条件に合っていた。
在来米では作れないわけではないが、食感の方向が変わる。
蓬莱米は、台湾の主食を「日本に近い形」に寄せた。
同時に、台湾の料理を「米に寄せる」ことも可能にした。
その相互作用が残った。

八田與一と烏山頭ダム
種はできたが、植える場所がなかった。
水が足りなかった。
台湾最大の平野である嘉南平原は、雨季は洪水、乾季は干ばつになる不毛の地だった。
水田稲作は不可能だった。
土はあるが、水がない。
そういう土地だった。
ここで登場するのが土木技師、八田與一である。
八田は10年の歳月をかけて、当時東洋一の規模とされる烏山頭ダムを建設した。
さらに、総延長1万6000キロに及ぶ給水路、嘉南大圳を作った。
水を公平に分配するため、八田は給水のルールも定めた。
稲作、サトウキビ、雑穀を3年サイクルで回す。
3年輪作法と呼ばれるものだ。
こうして、不毛の荒野が15万ヘクタールの緑の穀倉地帯へと変わった。
米が育つ土台が、ようやくできた。
食べるためではなく、売るため
ダムができ、蓬莱米が育つようになっても、台湾の農民がすぐにそれを食べたわけではない。
彼らにとって蓬莱米は、日本へ高く売るための換金作物だった。
蓬莱米を作って日本へ輸出する。
現金を得る。
安い在来米やサツマイモを買って食べる。
この経済サイクルが、台湾全土への普及を加速させた。
庶民の口に蓬莱米が入るようになるのは、戦後、生活が豊かになってからのことだ。
米の歴史は、味の歴史だけではない。
売買の仕組みが、食卓の形を変えていく。
池上米というブランド
現在、台湾で最高級とされる米は、東部・台東県の池上で作られている。
台湾人に米の話をすると、池上という地名が先に出てくることがある。
味の評価というより、ブランド名として機能している。
理由として語られるのは、水質の良さと寒暖差だ。
山に囲まれた地形が、空気を冷やし、夜を締める。
昼の熱と夜の冷えが、米粒の中に甘みを溜める、と説明される。
台北のスーパーでも、池上の認定マークがついた米は他より高く売られている。
同じ棚に並んでいても、袋の顔つきが違う。
贈答用として買われることもある。
池上弁当の文化も、ここから生まれた。
冷めても成立する米でなければ、弁当は主役になりにくい。
池上米は、その条件を満たしていた。
結果として、米の産地が弁当の産地にもなっていった。
「Q」の食感:台湾の米が選んだ進化
台湾の米は、日本の米とは微妙に異なる進化も遂げた。
同じジャポニカ米の系統に見えても、求められる性格が違う。
台湾人が好むのは、Qと呼ばれる食感である。
単に柔らかい、という意味ではない。
弾力があり、噛みごたえがあること。
歯に抵抗が残ること。
噛んだときに、米が潰れ切らずに踏ん張る感覚だ。
この感覚は、台湾の丼ものと相性がいい。
濃厚な魯肉飯のタレ。
排骨の脂。
そうした重い味を受け止めるには、米が弱いと負ける。
日本の白米は、軽いおかずと一緒に食べることが多い。
台湾の米は、強いタレや脂に耐える必要がある。
だから筋肉質であることが求められる。
そういう方向に調整されてきた。
二つの袋が並ぶ市場
台湾の米屋に行くと、丸い蓬莱米と、細長い在来米が隣同士に並んでいる。
どちらかが淘汰されたのではない。
ご飯として食べる蓬莱米。
伝統料理を作る在来米。
用途が違うまま共存している。
100年前の品種改良とダム建設の歴史は、
二つの米を使い分ける豊かな食文化として、台湾の日常に残っている。
そして魯肉飯の丼の中では、
その両方の時間が、まだ混ざらずに続いている。









