台湾の池上米についての記録

台北のスーパーでは、池上の認定マークが付いた米だけ値札が少し高い。山と山に挟まれた台湾東部の谷の名が、遠く離れた都市の米売り場で特別扱いされている。

台湾人に一番美味しいお米はどこか、と尋ねると、池上(チーシャン)だと返ってくることが多い。
即答に近い速度で言われることもある。

台北のスーパーでも、池上の認定マークがついた米は他より高く売られている。
同じ袋の大きさでも、値札だけが少し違う。

その場所は台湾東部にある。
山と山に挟まれた谷間だ。
地図で見ると、細い縦の線の中に集落が点在している。

なぜアクセスの悪い僻地が、台湾米の聖地になったのか。
そのルーツを辿ると、かつてここが内地へ送るための特別な田んぼだった歴史に行き当たる。


神が作った「米の受け皿」

池上は花東縦谷にある。
中央山脈と海岸山脈に挟まれた、細長い谷だ。
東部の地形は、この谷を中心に折りたたまれている。

ここには、生育環境としての条件が揃っている。

土は、新武呂渓が運ぶ沖積土である。
ミネラルが豊富で、有機質を含んだ粘土質だと言われる。

水は、上流に工場がない。
汚染源が少なく、純度の高い清流が流れてくる。
米作りにとって、水がそのまま価値になる。

風は谷間を吹き抜ける。
湿気が溜まりにくく、稲の病気を防ぐ。
風が通る土地は、稲にとっても楽になる。

気候は標高260m以上。
昼夜の寒暖差が大きい。
その差が米粒の中にデンプンを閉じ込める、と説明される。

蓬莱米(ポンライミ)が育つのに、これ以上ない条件が揃っていた。
池上は偶然ではなく、地形そのものが米の受け皿になっている。


荒野を開いた「日本人移民」と献上米

1900年代初頭、ここは石ころだらけの荒野だった。
平らに見えても、田んぼにはならない土地だった。

日本統治時代、この土地に可能性を見出した日本人移民が入植した。
新潟や長野から来た農民たちだと言われる。
石を除去し、水路を引いた。
手を動かす作業が続いた。

台北で磯永吉らが開発した蓬莱米の種が持ち込まれると、
西部の平野で作るよりも遥かに高品質な米が育つことが分かった。
同じ米が、別の味になる。

その品質の高さから、池上は献穀田として指定された。
昭和天皇への献上米(貢米)を作る産地になった。

当時の最高級品種として、カリホ(狩太)などが作られた。
カリフォルニア米ではなく、台湾の東の谷で育つ高級米だ。
池上の名は、最高品質の代名詞として内地でも知られるようになった。

台湾・蓬莱米の開発についての記録

台湾で魯肉飯を食べると、南国の長粒米を思い浮かべていた人ほど、箸にまとわりつくご飯に気づく。米屋ではその丸い米の隣に、細長くさらりとした米も並んでいる。

世界の片隅でいただきます

品種の進化と「Q」

戦後、日本人は去った。
ただ、技術と米作りの誇りは残った。
土地に残るのは人ではなく、やり方だったのかもしれない。

現在、池上で主力となっているのは高雄139号などの品種である。
かつての蓬莱米をさらに品種改良したものだと言われる。

見た目は悪い。
心白という白い濁りが出る。
ただ食味はコシヒカリに匹敵する、とも評される。

池上米の特徴として語られるのが、食感の強さだ。
日本の米よりも弾力がある。
台湾ではそれをQと呼ぶ。

冷めても水分が抜けにくい。
モチモチ感が持続する。
この性質が、次の弁当文化を支えることになる。


木箱の「池上弁当」

池上弁当(チーシャンビェンダン)は、駅弁として生まれた。
蒸気機関車が走っていた時代、池上駅は給水のために長い停車時間があった。
その隙にホームで売られたのが池上弁当だった。

この弁当は、米が主役になる。
普通の弁当はおかずが中心だが、池上弁当は順番が逆だ。
米の良さが先に立つ。

箱も特徴になる。
プラスチックではなく、経木の木箱を使う。
通気性があり、余分な水分を吸い取る。
米を最適な湿度に保つ。

冷めても美味しい池上米と、
水分を調整する木箱。
この組み合わせが、池上=弁当というイメージを台湾全土に定着させた。


電柱のない天国

池上の風景を象徴するものとして、伯朗大道がある。
見渡す限りの田んぼの中に、電柱が一本も立っていない直線道路だ。

これは偶然ではない。
農民たちが景観も品質の一部として考え、
電柱の地中化に合意した結果だと言われる。

金城武の木も有名になった。
エバー航空のCMで金城武が茶を飲んだ場所として知られている。

ただ、その背景にあるのは、
100年前から続く米作りへの執念が生んだ緑である。
観光の風景の下に、農業の時間が折り重なっている。


噛み締める歴史

池上弁当の蓋を開ける。
湯気と共に、甘い香りが立つ。

その一粒一粒には、
磯永吉の品種改良、
日本人移民の開拓、
そして台湾の農民が守り抜いたブランドの歴史が詰まっている。

これは単なる台湾土産ではない。
100年前に海を渡った日本の稲が、
南国の谷間でたどり着いた安住の地の味なのだ。

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