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台湾の幽霊チェーンについての記録

台北の街を歩いていると、同じ店に何度も出会う気がする。

角を曲がる。
また見かける。
さらに数百メートル歩く。
もう一軒ある。

赤い看板の永和豆漿。
黄色い看板の温州大餛飩。

日本人の感覚なら、巨大なチェーン店だと思うだろう。
全国規模の本部があり、統一された味がある。そう想像する。

だが実際には、それらの多くがチェーンではない。

本部もなければ、共通のマニュアルもない。
経営者も違い、味も違う。

互いに無関係の店が、同じ名前を掲げている。

台湾全土に広がるこの現象は、しばしば幽霊チェーンと呼ばれる。
実体のない組織が、街を覆っているように見えるからだ。

その正体を考えるには、いくつかの例を並べてみるのが早い。


街を満たす五つの幽霊

この現象には、決まった形があるわけではない。
だが、発生の仕方にはいくつかの型が見える。

代表的な五つを置いてみる。

永和豆漿(ヨンハー・ドウジャン)

もともとは、永和という場所にあった特定の店、世界豆漿大王から始まった。

24時間営業。
わずかに焦げた香りの豆乳。

その様式があまりに支持されたため、模倣店が次々に現れる。

やがて永和という言葉は、地名である前に、
「ここは深夜営業の豆乳屋です」と知らせる記号になった。

客は看板を見ただけで、何が出てくるかを理解する。

名前が、説明の役割を持つようになる。

美而美(メイアルメイ)

1980年代、ハンバーガー朝食を持ち込んだ店があった。
美而美である。

鉄板の上でパンと卵を焼く光景は、それまでの朝とは少し違っていた。

その形式が広まると、後発の店が「○○美而美」と名乗り始める。

商標が整う前に、名前だけが街へ出ていった。

結果として、美而美は固有名詞であると同時に、
洋風朝食屋を指すジャンル名のように扱われる。

名前が一般化すると、境界は曖昧になる。

温州大餛飩(ウェンジョウ・ダー・フントゥン)

台北には、この看板が多い。

だが、中国の温州に同じ料理があるとは限らないらしい。

戦後、温州出身の退役軍人が台北で店を開き、
大きなワンタンを売り出した。

そこに地名を添えた。

料理は台湾で形を整え、
名前だけが故郷を指し続ける。

ナポリにないナポリタンに似た構造がある。

人は、場所の記憶を味に重ねる。

嘉義火鶏肉飯(ジャーイー・フオジーロウファン)

台北でこの看板を見ても、
嘉義に本店があるとは限らない。

ここでの嘉義はブランドというより、
七面鳥を使っています、という説明に近い。

普通の鶏ではない。
それだけが伝わればいい。

客にとって重要なのは、
料理の仕様が想像できることだ。

名前は、仕様書のように機能する。

度小月(ドゥーシャオユエ)

台南の担仔麺の老舗として知られる度小月。

低い椅子。
赤い提灯。
小ぶりの麺。

その雰囲気自体が模倣され、
似た店名の店が各地に現れる。

味だけでなく、食べる場面までもが複製される。

人は料理だけでなく、
そこで過ごす時間の形も求めているのかもしれない。


模倣が仕組みになる理由

なぜこのような状況が成立するのか。
日本なら、商標の問題として争いになりそうだ。

だが台湾では、大きな衝突として表面化することは少ない。

いくつかの理由が重なっている。

まず、名前の構造がある。

地名と料理名を組み合わせた呼び方は、
内容を説明する表示と見なされやすい。

説明である以上、独占しにくい。
結果として、誰もが使える共有地のようになる。


次に、本家の判断がある。

仮に権利を持っていても、
無数の小規模店をすべて訴えるには負担が大きい。

さらに、大きな企業が小さな店を訴える構図は、
人情を重んじる社会では好意的に受け取られないこともある。

そこで放置が選ばれることがある。

模倣店が増えるほど名前は広まり、
本家は聖地として認識される。

競争と宣伝が、同時に進む。


もう一つ、料理人の文化も影響している。

師匠のもとで学び、
独立するときに似た名前を使う。

暖簾分けに近い考え方だ。

加えて、自分の店を持とうとする独立志向が強い。
加盟するより、看板だけを借りて城を築く。

その積み重ねが、街の密度を上げていく。


本物よりも役に立つかどうか

最後に、これを受け入れている側の感覚がある。

本物かどうか。
その問いは、必ずしも最優先ではない。

安く、うまく、近い。
それで十分なことが多い。

「この永和は本店ではない」と聞いても、
味がよければ話は終わる。

実利が基準になる。

誰が経営しているかより、
いま空腹が満たされるかどうかが重要だ。

この閾値の低さが、
幽霊チェーンの土壌を形作る。


看板は検索のためにある

台湾において、看板は必ずしもブランドではない。

見知らぬ街で、何を食べられるかを知るための目印だ。

嘉義火鶏肉飯と書いてあれば、
七面鳥と白米があるだろうと想像できる。

美而美とあれば、
ハンバーガーと鉄板の音が思い浮かぶ。

タグのようなものだ。

経営の実態がどうであれ、
味の方向さえ外れていなければ、
客は静かに店を出る。

この仕組みは、おおらかにも見えるし、合理的にも見える。

街を歩いていると、同じ名前が繰り返し現れる。
だが、その背後には別々の人間の営みがある。

幽霊のように見えるのは、
組織ではなく、共有された理解なのかもしれない。

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