―― サツマイモ、福建の塩、蓬莱米 ――
今日の台北の夜市を歩くと、牛肉麺や小籠包、水餃子の看板が視界に入る。
湯気が立ち、麺が茹でられ、蒸籠の蓋が次々と開く。
この風景を、そのまま1949年より前に持っていこうとすると、違和感が生じる。
牛肉麺は見当たらず、小籠包も、水餃子も姿を消す。
小麦粉を使った麺や包みものが、まだ日常ではなかった時代だ。
大陸由来の麺文化が押し寄せる前、この島の人々は何を腹に入れて生きていたのか。
サツマイモと飢餓の記憶(〜17世紀)
開発される以前の台湾は、痩せた土地だった。
稲作に適した平野は限られており、米は常に不足していた。
庶民の主食は米ではなく、番薯(サツマイモ)だった。
芋は痩せた土でも育ち、収穫量も安定していた。
「米が足りなければ芋を足す(番薯籤)」という感覚が、日常にあった。
米は特別な日に使うもので、腹を満たす基準は芋だった。
台湾の島の形がサツマイモに似ていることから、人々は自らを「番薯の子」と呼んだ。
それは自嘲でもあり、誇りでもあった。
貧しい開拓の時代を生き延びてきた、身体感覚に根ざした自己認識だ。
原住民の食も、この層に含まれる。
サツマイモやタロイモ、狩りで得た獣肉。
調味料は少なく、調理法は蒸すか煮るかが中心だった。
複雑な味付けはなく、素材をそのまま腹に落とす。
これが台湾食文化の最下層に横たわる、静かなベースになっている。

海の福建、山の客家
清朝時代、台湾へ渡ってきた漢民族は一つの集団ではなかった。
大きく分けて二つの波があった。
先に平野と沿岸部を押さえた福建(閩南)人。
遅れて山間部へ入り込んだ客家(ハッカ)人。
住んだ場所の違いは、そのまま料理の性格になっていく。
海の福建人 —— 海鮮ととろみ
沿岸部に定住した福建系の人々は、海とともに生きていた。
魚介類が日常のたんぱく源だった。
彼らの料理には、とろみが多用される。
蚵仔煎(オアチェン/牡蠣オムレツ)はその象徴だ。
台湾近海で採れる小粒の牡蠣を、地瓜粉(サツマイモ粉)の生地でまとめて焼く。
小麦でも米でもなく、安価な芋の粉。
腹を満たすための現実的な選択だった。
「羹(とろみスープ)」の文化も福建系が持ち込んだものだ。
汗をかく気候でも、勾芡(とろみ)をつければ冷めにくい。
同時に、塩分と旨味を体に留めることができた。
海の食材と、とろみの知恵。
これが沿岸部の味の輪郭をつくっていった。

山の客家人 —— 保存と脂
一方、山間部を切り開いた客家人の生活はさらに過酷だった。
土地は痩せ、水も限られていた。
彼らの料理は、生き延びるための設計になっていく。
客家料理には三つの基本があるとされる。
鹹(塩辛さ)、香(香り)、肥(脂)。
大量の汗をかく労働に耐えるため、塩分を強くする。
ネギ油やニンニクで香りを立て、食欲を維持する。
そしてラードでエネルギーを補給する。
保存の技術も極限まで発達した。
切り干し大根の菜脯。
高菜を発酵させた福菜。
湿気の多い島で食物を腐らせないための知恵が、味として残った。
山の料理は、保存と脂で成り立っていた。
「Q」という食感の誕生
当時の台湾の米は、まだ蓬莱米ではなかった。
使われていたのは在来米(ザイライマイ)だった。
インディカ系の米で、粘りがほとんどない。
炊くとパサつき、冷めれば硬くなる。
そのまま白飯として食べ続けるには、厳しい米だった。
粉にするという選択
移民たちは、米を炊くことを諦め始める。
代わりに挽いて粉にした。
米漿(米の液体)にし、蒸し、茹で、固める。
そこから様々な料理が生まれる。
ビーフン(米粉)。
福建系の細い米麺。
板條(バンティアオ)。
客家系の平たい米麺。きしめんに近い形だ。
碗粿(ワーグェ)。
米の液を茶碗で蒸し固めた米のプディング。
不味い米は、加工することで食べられるものへ変わっていった。
弾力の発明
さらに彼らは工夫を重ねる。
米粉だけでは脆くなる。
そこにサツマイモ粉や片栗粉を混ぜた。
すると独特の弾力が生まれる。
噛むと跳ね返るような食感。
現在「Q(キュー、QQ)」と呼ばれる感覚だ。
この食感は、贅沢から生まれたものではない。
パサパサの在来米をどうにか美味しく食べるための工夫だった。
貧しさの中から生まれた加工技術が、
やがて台湾の味覚そのものになっていった。
廟口という空間
荒波を越えてきた移民たちが、家よりも先に築いたものがある。
それが「廟」だった。
病気や災害と常に隣り合わせの生活において、廟は信仰の場であり、精神的な拠り所だった。
同時に、人が集まり、情報が行き交う場所でもあった。
集落の政治と経済の中心が、自然と廟の周囲に形成されていく。
人が集まれば、腹が減る。
参拝客や労働者を目当てに、天秤棒を担いだ行商人が廟の前に集まり始めた。
これが台湾における外食の原型になる。
建物の中で腰を据える食事ではない。
神様の軒先という開かれた場所で、安く、早く、小腹を満たす。
「小吃(シャオチー)」という食の形が、ここで定着していった。
やがて、廟の前の屋台は固定化し、照明を灯し、夜まで営業するようになる。
これが現在の夜市へとつながっていく。
基隆の廟口夜市は、その名前の通り、この系譜を今も残している。
台湾人にとって外食が日常なのは、単なる利便性の問題ではない。
信仰や共同体の賑わい、熱鬧(ルァナオ)と結びついた形で育ってきた文化だからだ。
食事は、腹を満たすだけの行為ではなかった。
人が集まり、生きていることを確認する場でもあった。
1920年代、蓬莱米という転換点
日本人が台湾に渡って最初に直面した問題は、政治でも気候でもなかった。
日常的に食べる米が、美味しくなかったことだ。
当時の台湾で流通していたのは、パサつきの強いインディカ系の在来米だった。
炊いても粘りが出ず、日本人の身体感覚には馴染まなかった。
内地からジャポニカ米を持ち込む試みも行われた。
しかし、亜熱帯の気候ではうまく育たず、多くが枯れていった。
そこで品種を土地に合わせる方向へ舵が切られる。
中心にいたのが、磯永吉(いそ・えいきち)と末永仁(すえなが・めぐむ)という二人の技師だった。
台北郊外の竹子湖、現在の陽明山周辺。
冷涼な気候を利用した実験が、何百回も繰り返された。
交配を重ね、失敗を積み重ねた末、亜熱帯でも育つジャポニカ米が姿を現す。
1926年、この米は「蓬莱米(ホウライマイ)」と名付けられた。
この時、台湾の食卓に変化が起きる。
パサパサした米から、粘りのある米へ。
白飯そのものが、主役として成立するようになった。
この変化がなければ、後に広まる魯肉飯(ルーローハン)の構造は成立しにくかった。
脂と甘辛いタレを受け止める土台として、蓬莱米は不可欠だった。
米は単なる主食から、味を支える基準へと変わっていった。

砂糖が日常になった時代
台南料理が甘い理由は、好みの問題だけではない。
背景には、統治期の産業構造がある。
日本統治時代、台湾は帝国の砂糖供給地として位置付けられた。
製糖業は急速に拡大し、各地に工場が建てられていく。
砂糖は、特別な調味料ではなくなった。
料理にふんだんに使えることが、豊かさの象徴になっていく。
甘辛い味付けが、日常のものとして定着する。
とくに台南周辺では、その傾向が顕著に残った。
製糖工場の周囲には、製氷技術も持ち込まれた。
氷は貴重なものから、暑さをしのぐ手段へと変わる。
枝仔冰(あずきバー)や、かき氷の文化は、この時期に広がっていった。
甘さと冷たさは、熱帯の生活に組み込まれていく。
同じ頃、味の素も台湾に入り込む。
1900年代初頭には、家庭料理に広く使われるようになった。
「清水変鶏湯」。
水が鶏スープに変わる、という言い回しが示す通り、その存在感は大きかった。
出汁の概念が、粉末という形で家庭に入り込む。
味付けは、より均一で、より再現しやすいものへと変わっていった。
名前に残る日本の痕跡
半世紀にわたる統治は、料理の名前にも影を落としている。
それらは、そのまま日本料理として残ったわけではない。
甜不辣(ティエンプラー)。
語源は九州の天ぷら、さつま揚げだ。
魚のすり身を揚げ、甘いタレをかける。
台湾の味覚に合わせて変形し、別の料理として定着した。
味噌湯(ウェイツェンタン)も同様だ。
日本の味噌汁が元になっているが、台湾では煮干し出汁に砂糖が加わる。
さらに貢丸(肉団子)が入り、具だくさんになる。
関東煮という名前も残る。
コンビニだけでなく、夜市の一角に関東煮の鍋が置かれている光景は珍しくない。
これらは和食ではない。
台湾の舌に合わせて調整され、別の文脈で生き残った料理だ。
日本の影響は、形ではなく層として残っている。
1949年、食卓はすでに出来上がっていた
1949年、外省人が大量に台湾へ渡ってくる。
彼らは、麺や餃子といった小麦粉文化を持ち込んだ。
しかし、その時点で台湾側の食卓には、すでに強固な基盤があった。
粘りのある美味しい米、蓬莱米。
砂糖と醤油による甘辛い味付け。
カツオと昆布に由来する出汁の感覚。
これらが揃った状態で、小麦文化が重ねられた。
台湾料理が中国大陸の料理と同じ形にならなかった理由は、ここにある。
1949年以前に通過した、日本統治期の50年という層が、明確なフィルターになっている。
その層を知ることで、台湾料理の輪郭がはっきりする。

湯気の下に積もったもの
魯肉飯(ルーローハン)をかき込む。
甘い味噌湯をすする。
その背後には、蓬莱米を作った磯永吉の試行錯誤がある。
砂糖畑で働いた人々の時間がある。
福建から渡ってきた移民の汗も混ざっている。
1949年以前を知ることで、
台湾料理は一気に立体になる。
それは突然生まれた味ではない。
層を重ねてきた食卓の記録だ。





