―― 戦争がもたらした決断と街の重心移動 ――
高雄駅は、中山路の突き当たりにある。
いかにも「中心」に据えられた顔をしている。
だが、最初からそうだったわけではない。
20世紀初頭、高雄の中心は海沿いにあった。
哈瑪星。
港と鉄道が直結する場所だ。
人も貨物も、まずは海に集まった。
駅が港にあるのは、自然な選択だった。
ではなぜ、
駅は内陸へ移されたのか。
それは、街が抱え続けてきた不都合と、
それを無視できなくなった時代があったからだ。
繁栄が生んだ「オメガカーブ」
当時の路線図を見ると、線路は大きく湾曲している。
港へ寄るために描かれた、Ω型のカーブ。
北から来た列車が南へ抜けるには、
哈瑪星で方向転換をする必要があった。
スイッチバック。
時間も手間もかかる。
鉄道当局は、この非効率を理解していた。
だが、港はすでに街の心臓だった。
駅を動かすという話は、
商人の反発と補償問題を伴う。
平時であれば、
不便は「我慢できるもの」として放置されただろう。
軍事都市へ変わる港
1930年代後半。
空気が変わる。
日中戦争が長期化し、
高雄の役割が変質した。
商業港から、軍事拠点へ。
南進のための基地として、再定義される。
特に重要だったのが、
南の屏東にある陸軍飛行場だ。
兵員と物資を、
いかに早く送れるか。
港での方向転換は、
もはや許されない遅延だった。
戦争は、
長年の躊躇を切り捨てる。
1941年。
軍事ロジック主導で、
駅の移転と路線の直線化が決断される。

鼓山で分かれた運命
新しい線路は、
現在の鼓山付近で分岐した。
港を迂回し、
内陸へ向かって直進する。
結果、機能は分離された。
旧ルートは高雄港駅となり、
貨物専用へ。
新ルートには、
新しい高雄駅が置かれた。
旅客と通過列車を担う、
新たな玄関口だ。
この構造が、
現在の鉄道網の骨格になる。
名前が移した重心
重要なのは、
「高雄駅」という名前が引き継がれたことだ。
玄関の名が移る。
それは、街の入口が移るという意味だった。
移転先の大港埔は、
当時は田園地帯にすぎない。
だが、更地だったからこそ、
大きな都市計画が描けた。
人口40万人を想定した、
放射と直線の街。
駅を中心に、
人と商業が集まり始める。
塩埕区や哈瑪星は、
徐々に「旧市街」になっていく。

レールが向いた先
1941年6月22日。
新しい高雄駅が開業する。
その半年後、
太平洋戦争が始まった。
駅のホームには、
兵士と家族が溢れる。
あの直線は、
都市の未来のために引かれた。
同時に、
戦地へ向かう滑走路でもあった。
今、私たちはその線路を
日常の移動として使っている。
だが、その始点には、
選択を許されなかった時代がある。





