台湾の永和豆漿についての記録

台北の街角では、「永和豆漿大王」の赤い看板が何度も現れる。けれど店ごとに、店構えもメニューも価格も、少しずつ違っている。

台北の街を歩いていると、
何度も同じ看板に出会う。

赤地に白い文字。
永和豆漿大王。

角を曲がっても、また現れる。
数百メートル歩けば、もう一軒ある。

最初はチェーン店だと思う。
だが、よく見ると様子が違う。

店構えも、メニューも、価格も揃っていない。
ロゴすら微妙に違う。

調べてみると、
これらはマクドナルドのようなチェーンではない。

互いに無関係の店主たちが、
同じ名前を掲げているだけだ。


1949年という静かな断層

台湾の食文化を語るとき、
1949年は避けて通れない。

国共内戦の末、
中国大陸から多くの人々が台湾へ渡ってきた。

兵士。
官僚。
教師。
そして、その家族。

彼らは土地だけでなく、
記憶の中の味も運んできた。

北方の粉食。
豆乳。
焼餅。
油條。

それまで米が中心だった島に、
小麦の文化が重なった。

古い層が消えたわけではない。
その上に、新しい層が静かに乗っただけだ。

永和という街もまた、
そうした移動の受け皿の一つだった。

やがて橋のたもとに屋台が立つのは、
偶然というより、
流れの延長だったのかもしれない。

台湾・1949年の大撤退についての記録

台北の朝、豆乳と油條を並べる店の隣で、牛肉麺の鍋から唐辛子の香りが立つ。米を主食としてきた島の街角に、小麦粉と大陸各地の味が、いまでは見慣れた風景として収まっている。

世界の片隅でいただきます

中正橋のそばに立った屋台

台北市と、新北市。
その間を流れる川に、中正橋が架かっている。

橋を渡った先の地域が、永和だ。

1955年。
山東省から渡ってきた退役軍人、李雲増と王俊模が、
この橋のたもとに小さな屋台を出した。

故郷の味である豆乳と焼餅。
店の名は、世界豆漿大王。

客の多くは、橋の拡張工事に携わる建設労働者だった。
早朝から働く彼らにとって、
安く、腹にたまり、温かい食事は必要だった。

粉ものと豆乳。
単純だが、体を動かすには十分だった。

屋台は、生活の動線の中に置かれていた。

台湾の燒餅についての記録

台湾の朝食屋で燒餅を割ると、胡麻と細かな生地の層が紙袋へこぼれ落ちる。食べやすさからは少し外れたその焼き物が、油條や卵、豆漿と並ぶと朝の一食の中心に収まっている。

世界の片隅でいただきます

朝食を夜に持ち出した店

1975年、世界豆漿大王は一つの決断をする。
24時間営業だ。

当時としては珍しい。

だが、経済成長期の台北には合っていた。
深夜まで働く会社員。
夜遊びの帰り道にいる若者。
長時間ハンドルを握るタクシー運転手。

真夜中に、熱い豆乳を飲む。
その習慣が、静かに広がる。

永和の豆乳には、もう一つ特徴がある。
わずかに焦げた匂いを残すことだ。

焦香と呼ばれる香ばしさ。
それが癖になる。

豆乳を飲むなら永和まで行こう。
そんな言葉が生まれる。

地名と味が、結びつき始める。

台湾の熱豆漿についての記録

高雄の朝、背中に汗がにじむ店先で、隣の男性は湯気の立つ熱豆漿に油條を沈めていた。暑さから逃げるように冷たい飲み物へ手が伸びる場所で、その白い丼だけが熱を抱えている。

世界の片隅でいただきます

名前だけが歩き出した

評判が広がるにつれ、
奇妙な現象が起きる。

永和以外の場所で店を開く人々が、
集客のために「永和豆漿」と名乗り始めた。

本家が許したのか、止められなかったのかは定かではない。
ただ、結果として名前は増殖した。

台湾全土へ。
やがて海外の中華街へ。

地名が、一般名詞のように使われる。

讃岐うどん。
博多ラーメン。

それに近い。

永和とは、場所であると同時に、
味の形式を指す言葉になった。


台湾に多い「幽霊チェーン」

永和豆漿のように、
店名や地名が公共財のようになる現象は、台湾では珍しくない。

商標よりも、わかりやすさが優先される。

看板は、権利を主張するためのものではなく、
「こういう味です」と伝える記号になる。

いくつか例がある。

美而美(メイアルメイ)

住宅街を歩けば、赤い看板の洋風朝食屋に出会う。
だが、それらの多くは同じ資本ではない。

1980年代に登場した本家のスタイルが広まり、
後発の店が「○○美而美」と名乗るようになった。

いつしかこの名前は、
特定の企業ではなく「ハンバーガーと鉄板のある朝食屋」を指す
ジャンル名のように機能している。

看板はブランドである前に、
ここで何が食べられるかを示す案内板になっている。

台湾の美而美についての記録

まだシャッターの下りた住宅街で、赤と黄色の「美而美」だけが灯り、鉄板の音を響かせている。店名の前後が少し違う看板も、卵や肉を挟んだ同じような朝食を並べている。

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嘉義火鶏肉飯。(ジャーイー・フオジーロウファン)

台北でもよく見かける。

だが、その多くは嘉義に本店があるわけではない。

嘉義という言葉は、
七面鳥を使ったご飯ですよ、という証明書のように働く。

出身者が始めた店もあれば、
単に様式を真似ただけの店もある。

客は、それを厳密に区別しない。

台湾の鶏肉飯についての記録

白いご飯に細く裂いた肉をのせ、沢庵を二切れ添えた小さな丼。台北の街では、その控えめな料理に「嘉義火鶏肉飯」という同じ看板がいくつも掲げられている。

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度小月(ドゥーシャオユエ)

台南発祥の担仔麺の老舗だ。

1895年創業。
台風の季節、漁に出られない小月を度るために麺を売った、
という由来を持つ。

本家は確かなブランドだが、
台湾には似た赤い提灯や低い椅子を置く店が無数にある。

度小月という言葉は、
店名を越え、台南式の小ぶりな麺を指す代名詞に近づいている。

台湾・夜市にある度小月についての記録

台南の夜市で、老舗と同じ「度小月」の三文字が、ステンレスの調理台とプラスチックの椅子の上に掲げられている。店内で整えられた担仔麺とは違う空気の中で、その看板だけが同じ顔をしている。

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温州大饂飩(ウェンジョウ・ダー・フントゥン)

台北中に看板がある。
だが、中国の温州に行っても、
同じ名物があるとは限らないらしい。

戦後、温州出身の退役軍人が台北で店を開き、
巨大なワンタンを売り出した。

それが広まり、
名前だけが独立していった。

温州にはない温州大饂飩。
ナポリタンに似た構造がある。

それぞれの大饂飩についての記録

台北の街には、黄色い地に赤い虎を置いた餛飩店の看板が今も残っている。一方で、本家とされる店の看板は白くなり、かつて目印だった色が店の境界を示さなくなっている。

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永和の三種の神器

店に入ると、
注文はだいたい似通ってくる。

鹹豆漿

豆乳に酢、醤油、ラー油、干しエビを入れる。

酸味によって豆乳がゆるく固まり、
おぼろ豆腐のようになる。

飲むというより、食べる感覚に近い。
初めての人は、ここで少し戸惑う。

台湾の鹹豆漿についての記録

台湾の朝食屋で運ばれてくる豆乳は、スープのように揺れながら、茶碗蒸しほど固まってはいない。酢の酸味を含んだ一杯に、乾いた油條の欠片が沈んでいる。

世界の片隅でいただきます

焼餅油條

焼いたパンに、揚げパンを挟む。

炭水化物で炭水化物を包む形だ。
合理的とは言いにくい。

だが、豆乳に浸すと収まりがいい。
油分が和らぎ、温度も落ち着く。

長く続いてきた組み合わせには、
理由があるように見える。

台湾の燒餅油條についての記録

夜明け前の朝食屋では、焼いた小麦の生地に揚げた小麦の生地を挟み、隣で豆漿が注がれている。台北では自然なこの三点セットも、北方中国の街角では同じ形に固定されていない。

世界の片隅でいただきます

甜豆漿

砂糖を入れた甘い豆乳。

焦げた香りを感じるなら、
温かいものが向いている。

派手ではないが、
記憶に残りやすい味だ。

台湾・甜豆漿という朝の定番についての記録

台湾の朝食店で「豆漿」とだけ頼むと、出てくるのは無糖の飲み物ではなく、甘く温かな一杯だ。焼餅や油條の乾いた生地の脇に、湯気の立つ椀やフィルムで封じたカップが並んでいる。

世界の片隅でいただきます

赤い看板が灯る時間

夜が深くなる。
それでも、どこかで赤い看板が光っている。

早起きの老人が新聞を読みながら豆乳を飲む。
その数席隣で、クラブ帰りの若者が焼餅をかじる。

時間帯の異なる人々が、
同じ空間に収まる。

永和豆漿という名前は、
特定の企業の所有物ではない。

外省人が持ち込んだ味。
橋を渡る労働者の空腹。
眠らない街の生活。

それらが重なり、
一つの言葉になった。

地名が、ブランドに変わる。
そしてやがて、
街のインフラのように扱われる。

湯気の立つカップを持ちながら、
それがどの店の永和なのかを気にする人は、あまりいない。

温かければ、それで十分なのだ。


「何でもあり」な台湾の朝食についての記録

台湾の小さな早餐店では、蛋餅や飯糰の隣にハンバーガーとサンドイッチが並び、飲み物の欄には豆乳、紅茶、コーヒーが同じ大きさで載っている。壁一面のメニューには、朝食らしい順序が見当たらない。

世界の片隅でいただきます

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