
高雄85大樓を外から見ると、今も一棟の巨大な塔に見える。けれど内部では、ホテル、套房、商業区画が別々の所有者と時間を持ち、水と電気だけがそれらを一つにつないでいる。
1997年、高雄85大樓は完成した。小港空港の旅客数は過去最高に達し、隣では85大樓を上回る103階の塔を含む開発計画が動いていた。高雄そのものが、これからもっと大きくなるように見えた年だった。同じ年、タイから始まった通貨危機がアジアへ広がっていく。
現在から振り返ると、話は簡単につながる。バブル期に巨大な建物を造り、アジア通貨危機が来て、計画が崩れた。85大樓の現在の姿だけを見れば、不自然な説明ではない。
実際の85大樓は、そこから20年以上かけて少しずつ形を変えた。商業施設は早く消えた。ホテルは所有者を何度も変えながら営業を続けた。套房と呼ばれる小型の部屋には多くの所有者が入り、日単位で貸す市場までできた。街の側でも、新しい交通や商業の中心が別の場所に育った。85大樓は、一度の失敗で終わった建物ではない。
アジア通貨危機だけでは、85大樓のその後を説明できない
アジア通貨危機の影響は台湾にも及んだ。台湾はタイや韓国ほどの通貨危機には陥らなかったとされる。それでも1998年の後半になると、台湾国内で企業の財務問題が相次いで表面化する。当時「本土型金融風暴」と呼ばれた信用不安だ。85大樓の開発を主導した東帝士も、その中にいた。
東帝士は不動産や化学繊維へ事業を広げ、大きな負債を抱えていた。1998年末、会合に出た12の銀行だけで、東雲とその関連企業に合計約600億元の債権を持っていた。当時の報道は、東帝士を金融風暴の衝撃を最初に受けた高負債の企業集団と呼んでいる。
負債は、拡大のために以前から積み上げられていた。そこへ金融環境の悪化が重なった。
その頃、85大樓はようやく本格的に使われ始めるところだった。計画は1988年、完成は1997年。商業施設が実際に開くのは1999年になる。構想から10年以上がたち、開発主体の側では、成長を続けるより資産を売って負債を減らすことが優先されていた。1998年の大晦日、東帝士は傘下の通信会社の株式売却を発表している。
1997年に見えていた未来は、建物が開く頃には条件が変わり始めていた。それでも、85大樓そのものが一斉に止まったわけではない。
最初に消えたのは、低層部の賑わいだった
85大樓の低層には、建台大丸百貨と室内テーマパークが入った。設計者が「垂直立体都市」と呼んだこの建物で、低層部は重要な位置にあった。ホテルやオフィスは、用事のある人が向かう場所だ。百貨店や娯楽施設には、もっと広い人が入ってくる。買い物や遊びのために、市民が建物へ入る理由を作る部分だった。
その商業機能は長く続かなかった。建台大丸は1999年に開業した。2001年に大丸が撤退し、2002年に営業を終える。テーマパークでは死亡事故が起き、一部の遊具が止まった。低層部の集客は弱っていった。
ここだけを見れば、85大樓は開業から数年で失敗したように見える。高層部では、別の時間が流れていた。
ホテル、レストラン、宴会場、展望施設には客が来ていた。百貨店がなくなっても、結婚式や宴会で85大樓へ行く人はいる。旅行者はホテルに泊まり、展望台から高雄を見る。一棟に積み上げられた用途は、同じ速度では弱らなかった。低層の商業が消えても、85大樓にはまだ「行く理由」が残っていた。
ホテルは、所有者が変わっても営業を続けた
ホテル部分の歴史を追うと、85大樓の衰退を「客が来なくなった」では説明できないことが、さらにはっきりする。
最初に入ったのは高雄晶華酒店だった。東帝士の財務問題が深刻になり、集団を率いた陳由豪が海外へ逃れる。2003年、ホテルは銀行団の管理下に入り、青雲金典酒店と名前を変えた。経営主体が変わっても、営業は続いた。
2007年には、住房率(客室稼働率)が7割に達し、赤字から黒字へ転じつつあると伝えられた。伝聞を含む当時の記事だが、ホテルがずっと客を失い続けていたわけではない。
2011年、ホテル部分は再び売られる。億大聯合が約32億元で取得し、2013年に君鴻國際酒店と名前を変えた。開発主体が変わっても、ホテルという用途は生き続けた。
建物全体には「失敗した超高層」というイメージが強まっていく。その中に、営業を続けて客を集める部分があった。85大樓は、建物単位では成功と失敗を分けられなくなっていた。
隣に立つはずだった塔も、まだ立っていない
建物の外でも、1997年に見えた未来はそのまま形にならなかった。
85大樓の隣で進められていた亜洲企業中心は、最終段階に103階の超高層塔を計画していた。最初の段階の商業施設は建ち、大遠百として2001年に開業する。現在も営業している。その先に予定された103階の塔は、今も建っていない。
計画そのものは残っている。建築許可は延長され、法的には生きている。予定地は今も駐車場だ。1997年の計画に描かれたスカイラインは、四半世紀以上たっても実現していない。
隣でも、低層の商業施設までは実現し、その上に描かれた未来だけが空いたまま残った。1997年には、85大樓の先にも塔が続いていくように見えていた。実際の高雄は、別の方向にも伸び始める。
高雄の人の流れも変わっていった
1990年代の商業地図を見ると、人の流れはむしろ85大樓の側へ近づいていた。大統百貨や新堀江のあった古い繁華街から三多周辺へ商業が移り、新光三越やSOGOが集まる。三多商圏が形になったのは、85大樓の足元だった。
その後、高雄には別の中心も育つ。2007年、台湾高鉄が開業する。高雄側の駅は、市の北側の左営に置かれた。台北と高雄を結ぶ主要な移動手段だった航空路線は急速に高鉄へ置き換わり、西部幹線の国内線は姿を消していく。翌2008年には高雄MRTの紅線が開業する。北側の漢神巨蛋の周辺には新しい商業集積が生まれ、三多だけが高雄の新しい商業中心ではなくなった。
住宅開発、交通、商業は、それぞれ別の時期に動いている。1990年代の商業は三多へ向かい、2000年代後半には左営の高鉄や巨蛋の周辺に別の中心が生まれた。
85大樓の完成時に想像されていたのは、南側の空港、三多商圏、港、超高層開発が重なっていく未来だった。高雄は成長を止めなかった。ただ、その成長は一か所には集まらなかった。
一つの建物の中に、たくさんの所有者がいた
85大樓の内部も、時間がたつほど一枚岩ではなくなっていく。当初の計画から、一部の套房は外部へ販売することになっていた。ホテル、商業、オフィス、套房と用途が違うだけでなく、所有の仕方も一つではなかった。
その構造は、その後さらに広がる。2018年の報道によると、85大樓には1,000室あまりの小さな套房があった。投資家が部屋を買い、日単位で貸す業者に貸すという市場までできていた。
外から眺めると、建物は巨大な一つの物体にしか見えない。中へ入ると違う。ホテルを持つ人がいる。套房を持つ人がいる。そこで営業する事業者がいる。共用部分を管理する管理委員会もある。85大樓は、一人のオーナーが一つの事業として動かす巨大ビルではなくなっていた。2019年、その構造が具体的な形で表に出る。
2019年、ホテルが二度目の財務問題に巻き込まれた
2019年、君鴻國際酒店が入る高層部分が裁判所の競売にかけられた。2月の1回目は最低価格85億元で、入札がなかった。2回目の68億元でも成立しない。3月の3回目、最低価格は54億4025万8000元まで下がり、凱德唐がそれより1万元高い54億4026万8000元で落札した。
所有権は5月に移る。7月、君鴻國際酒店は営業の終了と会社の解散を決めた。その後、宿泊は9月末まで、飲食は7月末まで続けると説明している。
ホテル部分が所有者側の財務問題に巻き込まれるのは、初めてではない。2003年には東帝士側の問題から銀行団の管理下に入り、名前を変えて営業を続けた。今回は億大側の財務問題を背景に、ホテル部分が競売へ回った。二つの財務問題の間には、住房率が7割に達したと伝えられた時期もある。85大樓の高層ホテルが2019年に止まった理由を、「客が来なくなったから」とだけ見るのは難しい。問題は、ホテルの外側にも広がっていた。
分けて所有しても、水と電気は同じ建物を流れる
2019年の夏、85大樓ではホテル部分の引き渡し(点交)をめぐる対立が続いていた。8月、裁判所が引き渡しのための現地確認に入ろうとすると、前の所有者側が集めた数百人に阻まれた。一方、ホテル側は3か月以上にわたって管理費を滞納していたと報じられた。
二つを単純な因果でつなぐことはできない。同じ夏に、所有権の移転をめぐる対立と管理費の滞納が重なっていた。
9月には、管理委員会が滞納への対応として水と電気を止めたと報じられた。影響はホテル側だけでは済まない。まだ営業していた他の区画も巻き込まれ、30人以上の従業員が無給休暇になった。電気が止まってエレベーターが動かず、従業員は1階の非常口から37階まで階段で上った。冷蔵庫の食材も傷んだ。
起きていたのは、「所有者が多すぎて誰も管理できない」という話ではない。管理委員会は機能していた。管理費の滞納に対し、給水と給電を止める措置を実際にとった。その手段が水や電気という共用インフラだったため、影響が一つの区画にとどまらなかった。
85大樓の中では、所有者も契約も事業も分かれている。水と電気とエレベーターは、同じ建物の中を通っている。経済的には分かれて使われるようになった建物が、物理的には最後まで一棟だった。2019年の出来事は、その当たり前のことを乱暴な形で見せた。
未来は消えたのではなく、同じ形では来なかった
85大樓が現在の姿になるまでを追うと、一つの「失敗原因」を探すこと自体に無理がある。
東帝士の財務問題は大きかった。それだけでは、ホテルがその後も十数年営業を続けたことを説明できない。百貨店は早く消えた。ホテルや展望台には人が来ていた。ホテルは二度、所有者側の財務問題に巻き込まれた。套房には別の所有者と別の市場が生まれた。
街の側では三多商圏が実際に成長し、その後、左営の高鉄や巨蛋の周辺に別の中心が加わった。隣に計画された103階の塔は、今も建っていない。
85大樓が想定した成長は、形を変えて実際に来た。高雄はその後も大きくなった。新しい商業地が生まれ、交通は便利になり、別の場所には新しい都市機能が集まった。ただ、1997年に描かれていたように、南高雄の一角へ超高層ビルと国際商務機能が次々に積み上がっていく未来にはならなかった。
85大樓の中でも、かつて一つの「垂直都市」に重ねられた機能は、長い時間をかけて別々の道を進んだ。
建物は残り、高雄も成長した。失われたのは、その二つが同じ形で成長していくという未来だった。





